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突然ですが、お引越しします。
場所を変えるだけで、中身は相変わらずのまんまですが。 キリキリソテーにうってつけの日 http://d.hatena.ne.jp/owl_man お手数ですが、リンクしてくださっている方は、張替えをお願いいたします。 現在、こちらのデータをぼちぼち移行中です。(2009年のデータは、移行済) 『阿Q正伝/狂人日記』魯迅
魯迅と聞くと、高校生の頃を思い出す。 文学史で必ず出てくる魯迅、そしていつも出てくる「阿Qって何?」という疑問。名前がゆかいだからといって手に取ると、ひどいことになる。全然ゆかいな話ではない。 それでもなんとなく分かるのは「日本人とはルーツが違う文学なんだなあ」ということ。日本の共同体が「出る杭を打つ」なら、中国の共同体は「出る杭を投げ捨てる」ような。同じアジアなんだけど、この違いはなんだろうと思わず考える。 というわけで、魯迅再読。大学1年以来である。今読んでみると、魯迅ってこんな辛らつだったけ、とか思う。西洋啓蒙思想への傾倒とか、中国の「革命」志向とか、中国が好きなんだけど嫌いなところもあるよ!という雰囲気がにじみ出ている。なんとなく潔癖なイメージ。 短すぎて「ん?もう終わり?」と思うような作品も多かったが、著名な作品はやはり印象に残る。 以下、気になった作品の一言レビュー。 「狂人日記」: 「人を食うのが私の兄貴だ! 私は人食い人間の弟だ! 私自身が人に食われても、それでもやっぱい人食い人間の弟だ!」 精神疾患にかかった男の日記を公開するという、いわゆるメタ文学の形をとる短篇。 強迫神経症の人の精神傾向を、わりとストレートにトレースしていると思う。全ての人が自分を狙っていると、本気で考えるらしいので。神経に悩まされる人は。 「四千年の人食いの歴史を持つ私!」という叫びは、狂ったものか、それとも正当なものか? 彼は治って任官しているっていうけれど、嘘だろうそんなの。 「故郷」: 故郷に戻ってみたけれど、かつてのおさななじみは、自分のことを「旦那様!」と呼ぶ…。 身分制度とか、農民根性にまつわる齟齬と、失ったものへの哀悼について。 かつてのおさななじみ閏土(ルントウ)が、金持ちとなった主人公の心の中で、絵画のように思い出されるシーンが美しい。陶器の絵のような美しさがある。 「阿Q正伝」: カフカ的不条理を、中国農村で実践したような話。 見栄っぱりで嘘つき、政治のことなど何も知らない無学の阿Q。立派とはほど遠い、友達にもあまりなりたくない人物だが、まったく知らない間に入った「革命党」の罪で、処刑される。 おそらく阿Qのように、たいした哲学がなくて革命に参加し、どうしようもない罪を問われて、いくつもの命が処刑台に消えたのだろう。 思想と行動は必ずしも一致しない。どうしてものっぴきならない状況で人を殺す人もいれば、女の子にもてたくて、人殺しをする人間だっている。 recommend: 残雪『黄泥街』…におい立つ、中国の不条理。 どうにかなりそうな日々![]() 今年の春から、文章を読んで書く仕事についた。 自分が「仕事と趣味を分けない人間」だなあというのはうすうす分感づいていたけれど、まさかここまでどんぴしゃりではまるとは、ちょっと想像していなかった。 オフィスでかたかたと、家でも本をぺらぺら、そしてかたかたと。 中身は違うけれど、やっていることは日がな一日だいたい同じ。 文字とたわむれて、ステップ踏んで踊っている。かたかたかた、かたかたた。 とりあえずは、うちの編集部が担当する、テクニカルな話題できちんとした文章が書けるようになるのが目標。 しばらくは読み専門になりそうかもしれない。 あ、あとなにげに編集長が世界文学好きらしいので、じつはとても楽しみだったりする。 一日15時間、文字にまみれて暮らす日々。 院生の時と、変わらないといえば変わらないような気もするけど、とりあえずはどうにかなりそうなので、まあいいか。 『桜の園・三人姉妹』チェーホフ
「失礼ですが、あなたがたのようなぬ分別な、世辞にうとい、奇怪千万な人間にゃまだお目にかかったことがありません。ちゃんとロシア語で、お宅の領地が売りに出ていると申し上げているのに、どうもおわかりにならんようだ」 「一体どうしろとおっしゃるの?教えてちょうだい。どうすればいいの?」 (「桜の園」より) 19世紀ロシアで生まれた作家、チェーホフの4大劇のうちの2作品。 「失うこと」と「先に進めないこと」について。 舞台を想像しながらチェーホフ劇を読むと、ほとんど舞台上が動かないことに気がつく。 人々は集まって「こんな大変なことが起こる」「どうしよう」「もう起こってしまった」と会話を繰り広げる。 だけど舞台は静かなままで、外部の出来事は、「音」だけと、象徴的に処理される。 まるで、日常には、「起承転結」のような礼儀正しい流れなど存在しないよ、とでもいうように。 静かで少し苦い、だけどじんわりとにじむ人間への愛情―チェーホフの作品には、そんな雰囲気がある。 大ぶりで型破りなものが多いロシア文学の中で、チェーホフの持つ都会的な細やかさ、軽やかさは目をひく。 個人的には、劇より短篇の方が好きだけど、この2作品の持つやるせなさ、それでも「生きていかなくてはならない」という、ロシア的な前向きさ?はいい。 「桜の園」: 自分の愛する桜の園のある家を売り渡さなくてはならなくなったラネーフスカヤ夫人。 目の前に売却がせまっていても、まだ「どうしたらいいか分からないんだもの!私は馬鹿なんだもの!」と嘆きながら金を使い続ける。 チェーホフはこの作品を「喜劇」と呼んだ。確かにそうかもしれない。 現代人らしい合理主義から見たら、「なんでこの人はもっと合理的にやらないんだろう」と、苛立ちが募る部分は多々ある。 だけど夫人はとても愛らしく、やさしい心の持ち主でもある。 ただ、「現実的」に生きる能力が徹底的に欠けているだけだ。 「いつかどうにかなる」と夢を見続けて、そして気がつけば現実が目の前にすでに横たわっている。 金持ち商人ロパーヒンと、没落貴族のラネーフスカヤ夫人の対照的な姿が印象に残る。 「ああ早く、こんなことが過ぎてしまえばいい。なんとかして早く、このようながたぴしした、面白くもない生活が、がらりと変わってしまえばいい!」 念願の桜の園を手に入れた瞬間に、ロパーヒンは涙を流してこう嘆いた。 ここらへんの描き方が、チェーホフはうまいと思う。下克上にまつわる、苛立ちと喜び、そして喪失の悲しさが混ざった心が表れている台詞かなと。 あと、桜がロシアにもあることに、普通に驚いた。桜というと、どうしても日本のイメージが強すぎるから、ロシア農民の後ろに桜が満開になっている姿を思うと、なんか不思議な感じがする。 「三人姉妹」: 三人姉妹が住む家に、いろいろな人がやってきて、話をしていく。 思想の話、政治の話、家の話、結婚の話、恋の話・・・ 幕ごとに世の中は移ろって、三人姉妹の生活は苦しくなっていく。 兄は借金を背負い、家は乗っ取られかけ、お金はない。夢は叶わない。 現実は厳しくて、三人姉妹は、そのことに嘆いている。 だけど何か行動して積極的に変えようというわけではなくて、ただせまる現実に耐え忍んでいる。 そんな彼女たちを訪ねてくる軍人たちも、どうにも風采が上がらない人たちばかりだ。 それでも当たり前のように、恋の駆け引きは成立する。 「しかし生活は、依然として今のままでしょう。生活はやっぱりむずかしく、謎にみち、しかも幸福でしょう。千年たったところで、人間はやっぱり、「ああ、生きるのはつらい!」と嘆息するでしょうが―」 チェーホフ作品の根っことなる思想を感じた台詞。 嘆いて、恋をして、失って、それでも生きていかなくてはならないのだと。 recommend: チェーホフ『かもめ・ワーニャ伯父さん』…チェーホフ4大劇。 テネシー・ウィリアムズ『ガラスの動物園』…失って手からすべり落ちるもの。 『テンペスト』シェイクスピア
だが、大地に礎をもたぬいまの幻の世界と同様に、 雲に接する摩天楼も、豪奢を誇る宮殿も、 荘厳きわまりない大寺院も、巨大な地球そのものも、 そう、この地上に在るいっさいのものは、結局は 溶け去って、いま消えうせた幻影と同様に、あとには いっぺんの浮雲も残しはしない。 (本文より) 「私の魔法は消えました」。 そう語るのは稀代の魔術師プロスペロー、そしてウィリアム・シェイクスピア本人ではないだろうか。 舞台で夢を見せ続けた作家による、「最後の作品」。 作数を重ねるごとに、ますます魔術師のようになっていくシェイクスピア作品の、最後を飾るにふさわしい一作となっている。 「テンペスト」は、その名が示すように、嵐が吹きすさぶ陸の孤島から始まる。 この嵐は、空気の妖精エアリエルが起こしている。妖精を使役しているのが、かつてのミラノ大公プロスペロー。 プロスペローは、大公のくせになぜか魔術に没頭し、政治の舞台から追い出されてからは、陸の孤島で魔術師として暮らしている。 自分を追い出したナポリ公アロンゾーとその息子ご一行の船を、死なない程度に難破させて、自分達の島に引き寄せる。 本書もまた、かつて何度もシェイクスピア劇の中で繰り返された「復讐」がテーマである。 しかしそこは最後の作品だ、復讐の輪は閉じられる。 これまでギリシャ悲劇を読んできたせいか、あらためて感慨深いものがある。 自由になりたいためにせっせと働くエアリアルや、不細工者キャリバン、老顧問官ゴンザーロー、恋に落ちる若者たちなどの登場人物もおもしろい。 たった数名しかいない孤島で、老若男女に妖精たちがいて、まるで小さな「地球」の舞台のようだ。 そうしてそれは、シェイクスピアがずっと語り続けてきたことでもある。 四大悲劇読了後に、手に取ることをおすすめ。 すてきな魔法でした。拍手。 シェイクスピアの作品レビュー: シェイクスピア全集 recommend: シェイクスピア『夏の夜の夢』…どうぞ皆様よい夢を。 ソポクレス『オイディプス』…追放される王。 Bless you.
くしゃみをしたら、シンクの中の皿ががたり、とくずれた。
なんだか居心地がわるくてはなうたを歌ったら、皿の山が大きくくずれて大皿が割れた。 関係はない。 関係は、ない、はずなんだけどなあ。 『僕はマゼランと旅した』スチュアート・ダイベック
ダイベックが根の底から「街と記憶」の作家なのだと知ったのは、去年に行ったダイベックの講演会からだ。そして音楽を意識する作家でもあるということも。 冒頭のテネシー・ウィリアムズの引用は、本作品の方向性をよく表しているように思う。 『記憶のなかでは何もかもが音楽にあわせて起こる気がする』。 舞台は、前作『シカゴ育ち』と同じシカゴのダウンタウンだが、今回はさらに描かれるものの「ダークさ」が増している。 少年ペリーとレフティ叔父、家族に友達、周囲の人々の物語が、シカゴの路地のあちらこちらに散らばっている感じ。 ドブまみれのうんこ川、治安の悪いダウンタウン、アンダーグラウンドな酒場にたまる不良たち。ヤクもやるし盗みもやる。人だって殺してしまう。 おそらくブコウスキーが書いたら「くそったれ!」な感じにしあがる題材(それはそれでおもしろいが)を、ダイベックはほとんど嫌悪を抱かせないように描く。 これは作家の手腕だなあと思う。ちゃちなノスタルジーに入りこむようで、そうでない。この絶妙なバランスがすばらしい。 以下、作品の一言感想。気に入ったものには*印。 歌:* 一番幼い幼少の記憶。はぐれ者のレフティ叔父さんと一緒に、歌を歌いながら酒場をめぐる。 ルートビアって、確かに子供にとってはどこか大人の味がしたなと思う。(まずいんだけどね) 表紙の女の子のシーンはここに収録されている。この視覚的美しさは必読ですよ。 ドリームズヴィルからライブで: なつかしい。思わずそう思った作品。 兄弟がいて、同じ部屋に寝ていた経験を持つ人なら、そう思うのでは。 夜だけワンダーランドを作るとか、年下に課すポイント制とか、どこの国でもあまり変わらないなあ。 引き波:* 父親と弟と、ユダヤ人のバザールへお買い物。 父親のキャラクターがなんだかすてき。 お父さんがジプシーに股間つかまれるシーンには思わずくすりと笑った。 胸:* マフィアの男が、とある男を殺そうとするけれど、なんだかうまくいかない。 女性の胸、殺す時の心臓の位置、いろんな「breast」が出てきて、いろんな人の物語が絡み合う。 脇役オンパレードのわりには、ものすごく印象的な話。 ブルー・ボーイ: 肌の青い、死ぬことが決定事項の少年をめぐる物語。 病弱な人を「聖人」扱いして、物語として語ることは、やはり微妙な問題だとは思うんだよね。 人を偲ぶやり方に、いいも悪いもないとは思うのだけど。 蘭:* メキシコまで行って、野生の蘭をつみに行く。 どこかロードムービーぽい雰囲気。馬鹿をやる青春ぶりがよく出ている。 最後の場面の映画らしさは、「歌」と通じるものがある。 ロヨラアームズの昼食:* 青春時代の、恋の物語。 夜中に聞こえる声が、「Dont you wanna(やりたくないかい)」と言っているようでもあり、「ダナ」と女性の名をささやいているようでもあり。音の描写がいい話。 僕たちはしなかった: 浜辺で恋人としている最中に、人が死んでしまうシーンにでくわしてしまう。 そこから生じる、どうしようもないズレ。 僕たちはしなかった。僕たちはしなかった。フレーズはリズムのように繰り返す。 ケ・キエレス: 「お前、何の用だ」と繰り返し問われるけれど。 移民の子であるダイベックらしい話。ダウンタウンには異国語が満ちる。 マイナー・ムード:* 出て行ってしまった、レフティ叔父サイドの物語。 おばあちゃんの風邪治しの儀式と踊りのシーンがすてきすぎる。 ガラスの向こうに、過去の自分を見ることって、確かにある気がする。 ジュ・ルヴィアン: レフティ叔父の葬式を抜け出して、香水を一本盗んで、見知らぬ女性に渡そうとする。 大好きな叔父が死んだことによる動揺と、無意味な行動が、妙な切なさを誘う。 スチュアート・ダイベックの著作レビュー: 『シカゴ育ち』 『それ自身のインクで書かれた街』 スチュアート・ダイベック講演・朗読会 recommend: テネシー・ウィリアムズ『ガラスの動物園』…記憶の美しさ。 チャールズ・ブコウスキー『町で一番の美女』…こういう描き方もある。 『アガメムノーン』アイスキュロス
「しかしそれでも、眠りのさなかにも、滴のように 心の臓をたたくのは、古傷の疼く痛み、そして 否応なくやってくる、おのれの分を思い知る日」(本文より) ギリシア三大悲劇詩人の一人、アイスキュロスの「オレステア三部作」の第一作。 トロイ戦争に遠征した、王アガメムノーンの悲しき末路。 長年のトロイ遠征から帰ってきたアガメムノーンが、帰ってくるなり、妻クリュタイムネーストラーと従兄弟アイギストスに謀殺される。 理由は、アガメムノーンが、娘イーピゲネイアを戦の生贄として殺したことによる。 戦争の本質のひとつだ。向けた刃は返される。 読んでいてすごいと思ったのは、父王アトレウスから脈々と続く、おどろおどろしいまでの血なまぐさい人間関係。 弟を殺して妻を奪う、妻を奪った国を滅ぼす、娘を殺した夫を殺す、妻と従兄弟の不貞、政敵の弟に子供の肉を食らわせる、父の恨みを買って子供が殺される・・・。 「したことだけの報いを受ける」というのが、ギリシア哲学の基盤にあるらしい。 殺した者はいつか殺され、その者もまたいつか殺される。復讐の連鎖は止まらない。 おそらく戦争は、「あちらはこちらと違う」という決別、「あいつらは私の大事なものを奪った。だから奪い返す」という理由のもとに起こる。 彼らにとって、正当性がある。だからやるせない。 不吉の予言者として有名なカッサンドラも登場する。神の代理としての予言=決定事項。 「ぺぅー、ぺぅー」っていう台詞が印象的すぎた。神がかりってすごいなあ。 妻クリュタイムネーストラーの、うさんくさいまでの凱旋の歓迎の言葉の中に、殺意の刃が時折光ってみえるところも、読んでいてどきどきした。 本作では、まだまだ憎しみの連鎖は断ち切られない。 次は息子による母殺しが予言されている。 ギリシア悲劇って、どうにもこうにも、読者をとらえてはなさない何かがあるなあとつくづく思う。 recommend: ギリシア悲劇、あるいは復讐のらせん。 ホメロス『イリアス』『オデュッセイア』…まずはここから。 クリスタ・ヴォルフ『カッサンドラ』…予言者の物語。 イスマイル・カダレ『砕かれた四月』…止まらない復讐の輪。 『軽い手荷物の旅』トーベ・ヤンソン
ふらりとどこかに行ってしまいたくなるのは、おそらく持って生まれた悪癖であって、いつでも家出ができるよう、荷物はできるだけ少なくしておこう、そんな風に日々を過ごしている。 だから、この本は題名惚れ。しょうがない、好きなんだから。 彼女が住んだ極北の孤島のように、澄んだシャープさを持って描かれる、「旅」とそれにまつわる「人間関係」の短編集。 「旅」にありがちな、甘くぬるい心情を、美しくクラッシュしながら、「人と人は、全てをわかりあえることはない」という、いつものテーマが繰り返される。 ずれて、気がついて、だけどそばにいる人たち。物語は冷たくもあり、優しくもある。 以下、各編の一言感想。気に入ったものには*。 往復書簡: 日本人の女の子タミコとの往復書簡。 「たくさんの年を重ねる必要はない、物語を書き始めればいい。書かなくてはならないから書くのです」 夏の子ども:* 世界の悲劇についてなげく、都会の子どもを預かる話。 自分がここで平和に暮らしていることに罪悪感を感じさせる、その居心地の悪さ。 ニュース漬けの都会人の揶揄ともとれるけれど、最後が解放的なのが救われる。 八十歳の誕生日: ふとした瞬間、自分は相手を愛していなかったと気づいてしまうこの心。 最後の乖離のスピードがすごい。 見知らぬ街:* 見知らぬ街に迷い込む、地に足のつかない不安について。 拾った帽子に書かれていたアドレスをてがかりに、見知らぬ人に会いに行く。 わけのわからない感じが、むしろリアルな旅くさくて、なかなかおもしろかった。 思い出を借りる女: 自分でない、誰かになりたい。そのためなら、記憶を入れ替えたってなんともない。 静かな狂気。ありそうな話。 軽い手荷物の旅:* 自分の望む旅の作法に従おうとするけれど。 うまくはいかない、そんなものさ、人生も旅も。 エデンの園: 人のよい老女が、人づき合いの摩擦をどうにかしようとがんばる話。 トーベは「善悪の判断がつきかねるけれど、人間くさい人」を書くのが本当にうまい。 ショッピング: ディストピアSFのような世界の中で、二人の男女がその日暮らしをする。 うーむ、こういうのも書くんだ。 ささいな出来事が決裂を生み、そして決壊して、壁を壊しながら進んでいく。 森:* ターザンごっこをする姉弟。 トーベの実際の記憶なんだろうなと思う。ムーミンに通低する世界観。 体育教師の死:* 死んでしまった体育教師にやさしくしなかったことが、どうしても気にかかる。 ものすごくどシュールな会話。胃がきりきりしてくる。 鴎: 孤島に療養にきた夫婦の関係が、鳥を中心にしてどんどんずれこんでいく。 カーヴァーを思い出した作品。 植物園:** 偏屈なおじいさんたちの、奇妙な友情。 ぜんぜん大人じゃないじいさん達が、だんだんと友情を育んでいくのがいい。 やさしい話。本書では一番好きかも。 トーベ・ヤンソンの作品レビュー: 『トーベ・ヤンソン短篇集』 『少女ソフィアの夏』 『フェアプレイ』 トーベ・ヤンソンコレクション recommend: バリー・ユアグロー『憑かれた旅人』…旅で人生を棒に振る。 『愛その他の悪霊について』G・ガルシア=マルケス
「そして、恐慌にとらわれる前に、生きる妨げとなっている頭脳というあの濁れる物質をかなぐり捨てて告白した――彼女のことを考えない時間というのは一瞬もなく、食べるもの飲むものすべて彼女の味がし、唯一、神のみがそうであってしかるべきなのだが彼にとって人生とはいつでもどこでも彼女のことであり、彼の心の最高のよろこびとは彼女とともに死ぬことである、と。」 (本文より) 憑かれたように愛したとしても、この愛は叶わない。 ラテンアメリカの植民地時代を舞台にした、「ロミオとジュリエット」以来の、わりと正統派の恋愛物語。 だけど、マルケスの手にかかると、狂犬に噛まれた悪魔つきの少女と司祭の恋愛になる。 やはりマルケスはマルケスである。 愛は病であり、人は盲目になるというのは、昔から語られている真実の断片だ。 悪霊でも愛でも、どちらにせよ、理性をかなぐり捨てるほどの激情であることには変わりがないのかもしれない。 マルケスの描く人間は、だいたい全員どこかねじが外れているが、今回は、修道院のあくどい女たち(とりあえず人のものを盗む)と、殺人修道女マルティナがつぼだった。 いつも男性よりも女性の方が、強烈なイメージがある。 マルケスが、修道院で見つけた一体の少女の骨から、今回の話はできあがったらしい。 少女の遺骨は、髪の毛が22メートルもあったという。 さすが南米である。超現実が普通に起こってしまう。 そしてその小さな題材と、幼いころに祖母から聞いた伝説を組み合わせて、ここまで物語を創造することができるマルケスは、つくづく語り手だなあと感心する。 なぜ愛したか、どこを愛したか、そんなもっともらしい理由が語られないからこそ、悪霊のような愛情の存在が漂う作品となっている。 G・ガルシア=マルケスの著作レビュー: 『百年の孤独』 『予告された殺人の記録』 『エレンディラ』 『族長の秋』 recommend: 悪霊に憑かれたように。 ドストエフスキー『悪霊』…無神論に走る。 ジッド『狭き門』…狂信と叶わない恋。 『グローバリズム出づる処の殺人者より』アラヴィンド・アディガ
「おれは長年その鍵を探してきた。だが扉はつねにあいていたのだ」(本文より) インド人ジャーナリストが描く、現代インドの「光」と「闇」の物語。 主人を殺して「起業」した男<ホワイト・タイガー>が、中国の首相に向けて、自身の人生を独白する。 題名からして、どこのB級サスペンスかと思いきや、中身はけっこうシュール系だった。 究極の格差社会であるインドの闇を、ブラックユーモアで徹底的に描いてみせる。 笑えるんだけど笑えない。そんな小説。 「『ビジネスを成功させる十の秘訣!』だの、 『あなたも一週間で起業家になれる!』だの。 そんなもので金をむだにしてはいけません。アメリカの本などもう古い。 これからはわたしです。」 (本文より) 大真面目に、「起業家精神」を説く殺人者。 語り口がやたらおもしろいので、つい引き込まれてしまう。 「信心深い貧民」は、「鳥籠に捕らわれた、根っこからの奴隷根性」、「母なるガンジス川」は、「腐肉の浮く黒い泥の川」と喝破される。 あちこちに、「ハハ!とんだお笑い種だ!」という殺人者の哄笑が響く。 私も一度インドに滞在したことがある。 もう二度と行きたくないとは思うほどではないが、それでも精神的にかなりきつい思いをした。 おそらくきついと感じた理由は、殺人者のこの言葉にあるのかなと。 「動物は動物らしく、人間は人間らしく生きる。それがわたしの哲学です」 『罪と罰』のラスコーリニコフは、殺人の罪悪感にさいなまれたが、ホワイト・タイガーは罪悪感の欠片も感じてはいない。 家族が殺されるのを知っていて、なおそれでも「人間として生きる」と言い切るこの男に、平和に暮らしてきた人間が何を言えるだろうか? とはいえ、描かれるインドの「闇」は相当重いものであるにも関わらず、語り口調のせいか、妙に軽い感じなので、そこまで肩を張らずに読める。 それがこの本のいいところでもあり、残念なところでもあるのだろうが。 ブラック・ユーモアでブラックな世界を描くとこんな本になるという、ある科学調合の結果として。 recommend: インドを描く、それぞれの視点。 >トーマス・フリードマン『フラット化する世界』…インド・バンガロールへの楽観的考察。 >ヴィカス・スワラップ 『ぼくと1ルピーの神様』…「スラムドッグ・ミリオネア」原作。 『イエメンで鮭釣りを』ポール・トーディ
「信じる心がなければ、希望はない。信じる心がなければ、愛はない。 」(本文より) イギリス作家が描く、奇想天外ユーモア小説。 ボリンジャー・エブリデイ・ウッドハウス賞という、ユーモア小説に与えられる変な賞がある。(賞品として、ウッドハウス作品全52巻と、作品の名前がつく豚!が送られる) さすがユーモアを全力で愛する国だ。 さて、本書は題名の通り、「イエメンで鮭釣りをするプロジェクト」をめぐる、ドタバタ劇。 イエメン、こんなところである。 どう考えても、イエメンに鮭は似合わない。 しかしイエメンの豪商シャイフは、金の協力は惜しまないからと、プロジェクトを依頼する。 鮭プロジェクトは進行する。それぞれに、やらなければならない諸々の理由を抱えながら。 主人公は、まじめな水産学者のジョーンズ博士。ほか、ゆかいな仲間たち。 それぞれのキャラクターが、おもしろいぐらいに戯化されて描かれている。 ジョーンズ博士は流されっぱなしで、望んでもいないのに鮭プロジェクトの中心にすえられ、妻には捨てられ、しかし次第にプロジェクトにのめりこんでいく。 へなちょこ学者が、だんだんとイキイキとしていく様は、まるで水を得ていく魚のようである。 脇役のキャラクターもふるっていて、特に神がかった印象を持つシャイフと、典型的官僚のピーター・マクスウェルは本当におもしろい。あと、ばりばりキャリアウーマンのメアリ(妻)も。 シャイフのキャラクターは、アラブを美化しすぎている気がしなくもないが、見ていてとても気持ちがいい人。 一方で、マクスウェルの幼稚ぶりにはあきれ果てる。彼の考えるラジオ計画、本当にセンスがなさすぎた。(WW2じゃないんだから・・・) 「本当に、イエメンに鮭が泳ぐかもしれない」と読んでいる最中に思い始めたら、それはシャイフの影響だ。 鮭が逆流をのぼるように、人々もまた逆流をのぼることができる。 シャイフはそう信じて、プロジェクトに望んでいるのだ。 そう、へんてこな小説、ブラック・ユーモア小説でありながら、この話は「信じる」ことについての小説でもある。 「アラブの信仰世界」と「西欧諸国の消費世界」という二項対立はどうなの、とか、信仰と無邪気と無謀の差異についてとか、いろいろ思うところはあるのだが、なかなかよいユーモア小説だと思う。 メールやら審問やらの抜粋から物語の全貌が見えてくる、という手法は読んでいて楽しかった。 特におえらいさんの本音ばりばりの品のないメールが、すさまじい政治的解釈を経て、立派な通知書として出てくるあたりは、「いかにもありそう」で笑える。 イエメンで鮭?そんなばかな、と興味をひかれたらぜひ一読。 「私はそれを信じる。なぜなら、それが不可能だからだ。」 関連リンク: エクス・リブリス recommend: 魚の小説。 リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』…アメリカで鱒を釣る。 メルヴィル『白鯨』…くじら狩り。 1st anniversary![]() 1st anniversary -The Perfect Day for KIRIKIRI SAUTE- ブログ開設から1年が経ちました。というか、経っていました。 けっこう今さらなのですが。だってもう2週間ぐらいたってるよ・・・ まあせっかく気がついたからには、最初ぐらいお祝いしておこうかなと。 というわけで、いつも遊びにきてくれる皆様、ありがとうございます。 いわゆる社会人というものになってしまって、日々わたわたしていますが、本はあいかわらずのんべんだらりと読んでいきたいなあと思っています。 上の写真は、我が家の本棚の一部。 いろいろ謎のものがありますが、あまりお気になさらず。 今日は私にとってのひとつの節目でもありました。 ひさしぶりに、穏やかな、いい一日を過ごしました。 さて、報告はこれにておしまい。 これからもどうぞよろしくお願いします。 『不死の人』ホルヘ・ルイス・ボルヘス
「どんなにもなりうる人というのはいない。ただ一人の不死の人がすべての人である」(「不死の人」より) アルゼンチン随一の幻想作家による、時間と空間の「迷宮」短編集。 構成要素のわからない作家がいる。 「何を食べたらこういうものを作れるんだ」と首をひねらずにはいられない作家たち。 そんな作家のリストに、ボルヘスはぜひ招きたい。 とんぼみたいに、見ている世界が違うんじゃないか、脳の住む次元が違うんじゃないか(比喩ではなく、直接的な意味で)とわりと本気で思うお人である。 ボルヘスの書いたものは、小説ではなく「言葉で構築された何か」だといった方ががいいかもしれない。 たとえば、メビウスの輪。世界は始まりもなく終わりもなく、ぐるぐると閉じて廻っている。 一は全、全は一。偏在と不在。論理と反証。時代が時代なら、彼は間違いなく「魔術師」と呼ばれていただろう。 以下、気になった作品の一言レビュー。 「不死の人」 伝説の不死の都にたどり着いた男の手記。 ホメーロスの時代から20世紀まで生きた男が、自分の生について語る。 「そんな馬鹿な、嘘くさいよ」という反論さえ絡めとるこのしかけ。濃密で酔い痴れる。 「タデオ・イシドロ・クルスの生涯」 メビウスの輪の中で、「死」を描くとこうなる。 まさにボルヘス的作品。死は廻り続ける。 「アベンカハーン・エル・ボハリー」 王と奴隷、立場の逆転、理屈の反転。 事象の結果と経過は必ずしも一致しない。 「アレフ」 なんだかすごいものに出会ってしまった。という作品。 この作品、ボルヘスの実体験談な気がしてならない。そしたらいろいろ納得するんだけど。 「博覧強記」というか、「博覧狂気」というか、とにかく引用と論理の構築がすさまじい。 「神学者たち」は、哲学辞典を読みながらでも、ぜんぜん消化しきれなかった。 ボルヘスは、どこまでもいっても、つくづくボルヘスだった。 彼には、比類も類推も存在しない。 ホルヘ・ルイス・ボルヘスの著作レビュー: 『伝奇集』 recommend: >ビオイ・カサーレス『モレルの発明』…ボルヘスと親交のある作家の作品。不死についての物語。この叙情性がたまらない。 >ジャネット・ウィンターソン『さくらんぼの性は』…時の中に偏在。 『トゥルー・ストーリーズ』ポール・オースター
[嘘のような本当] 「これは実際にあった出来事である。この赤いノートブックに書きつけたほかのすべての物語と同じく、本当の話である」(本文より) 冗談が好きで、冗談を愛する人が好きである。 オースターが描く、嘘のような本当の話を集めたエッセイ集。 偶然を「予定調和だ」と廃した文学に対して、オースターは「偶然がある世界こそが本当だ」と語りかけてくる。 『ムーンパレス』で、主人公は自分の血縁の者に運命的に出会うのだが、この流れも、本書を読むと納得する。 日々出会う冗談のような本当のことを、ミステリのように科学的に立証するでもなく、超常現象として説明するでもない。 「こんなおもしろいこともあるんですよ、不思議ですよね人生って」というように、そうした偶然を楽しんで愛するその姿勢が好ましい。 私も、日常生活の中で奇妙な偶然のような出来事に出くわすことがある。 旅行先でなくしたものが、1ヵ月後に家のポストに入っていたり、または別のなくしものをマンションの砂場から掘り起こしたり。 誰も行方を知らないはずの鍵が、炊飯器の上にのっかっていたこともあるし、地球外の船のような動きをする光を見たこともある。 いまだにどうしてそうなったのか、さっぱりわからない。そしてあまり説明による納得も必要としていない。(ここらへんが、私が心からの文系たる所以だ) だけど、人生こういうことも起こりうるのだ、という心構えのようなものはできたように思う。 この広い世界、人間の法と定規では、とうてい測りきれないものがある。 そんな下地があるせいか、本書は、水を飲むようにごく自然に受け入れられた本だった。 冗談と偶然を愛する人はぜひ。 オースターの著作レビュー: 『ムーン・パレス』 『最後のものたちの国で』 recommend: 『偶然性の音楽』…偶然が招く。 『不死の人』…偶然もしくは必然。 |
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Author:ふくろう男 murmur
しばらくまた古典回帰(0520)
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