『うたかたの日々』ボリス・ヴィアン
うたかたの日々


[生きにくい世界と若者が]

フランス生まれの「永遠の青春小説」。
「20世紀の恋愛小説中もっとも悲痛な小説」という端書があれば、それは読みたくもなってくる。

この本がフランスの若者の間で大流行したのだというから、すごい。
なにがすごいのかというと、この不可思議な幻想の世界の話が流行になるというその風土。
日本でも読む人はたくさんいるだろうけど、ブームになることはきっとないのでは。


本書は、3組の恋人たちと、いかれた世界の物語。
「ライターに太陽の光を数適たらしこむ」。
物語はこんな表現に満ち満ちている。

外の世界はことごとくいかれていて、まるで残酷な童話のようだ。
すぐ人は死ぬし、死に方もいちいち異常。
むしろ主人公の6人だけが普通というか、世界にそぐわない純粋さを持っている。
それが「若者」であり、「青春」ということだろうか。

すごく「詩」っぽい小説だと思った。
掛詞や造語などの言葉遊びがこの作品の魅力のひとつでもあるのだが、原書で読めない日本人にとっては、どうしても分からないニュアンスがある。
本当はもっとおもしろいんだろうなあと思うと、残念でならない。

それでも、奇想天外な世界観は十分に楽しめる。
特に、主人公コランの作ったピアノを弾くとその音に見合ったカクテルが出てくる「カクテル・ピアノ」は秀逸で、本気で我が家に欲しいと思ってしまった。

肺に蓮の花が咲く病気で、離れ離れになる恋人たち。
狂いながらも美しい情景の欠片が、浮かんでは消え、浮かんでは消える。


...Boris Vian L'ECUME DES JOURS ,1947.
 ボリス・ヴィアン/伊東 守男訳 『うたかたの日々』 早川書房、2002年。

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ちょっと前に映画になった「恋愛写真」の小説で、「うたかたの日々」が小道具で出てきたのを覚えている。
結局、「恋愛写真」は本書の下手な焼き直しもどきでしかなかったが(それでもあれは売れましたね)。

ほか、岡崎京子が漫画化していたり、それなりに日本ナイズされて、日本文化に影響を与えているという、なんか不思議な立ち位置の本。

日々の泡

新潮社からも文庫で出ている。こちらでは題名は『日々の泡』。
題名の響き的には、『うたかたの日々』の方が好き。


recommend:
>コクトー『恐るべき子供たち』 (若い恋人は生きにくい)
>サルトル『嘔吐』 (「うたかた」にはサルトルのもじりがいっぱい出てくる)
>ブローディガン『西瓜糖の日々』 (雰囲気がよく似てる)
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『ムッシュー・テスト』ポール・ヴァレリー
ムッシュー・テスト

[不可能の紳士]


20世紀フランスの知性と呼ばれた、詩人ヴァレリーによる、不可思議な紳士の文章。
「ムッシュー・テストと劇場で」「ムッシュ・テストの航海日誌」など、いくつかの連作からなる。

「文章」とあえて呼んだのは、小説ともつかず、物語ともつかず、しかし奇妙に印象的な文章の束だと思ったから。
哲学のような、訓戒のような?
何かとてつもなく核心めいたことを言っているようで、それでいて理解の枠をさらりと踏み超える。
まるで錬金術師の日記を見ているような、そんな変な読後感だった。


本書は、ムッシュー・テストという、まるでつかみどころのない、どこか人間離れしている一人の紳士について、さまざまな角度から描いている。

「この種の人間の生存は現実では数十分以上つづくことはできないだろう」
ムッシュー・テストについて、序で述べられている言葉。そして問いが続く。
「なにゆえにムッシュー・テストは不可能なのか?」

「心はひとつの無人島」「神なき神秘家」「胸像のない人間」・・・このほかにも、彼について述べられる言葉は、謎めきに謎めいている。

主張もなく、執着もなく、迷いもない人間。
もし本当にこんな人間がいるのだとしたら、およそ言葉で語るのは不可能だと思うし、一方で彼は文学の中にしか存在しないとも思う。

ヴァレリーは難解な作家と称される。
彼が生涯かけて取り組んだ「自己の鏡」でもある「ムッシュー・テスト」。
本書は、彼の思考の深淵をぽかりとのぞかせる。


...Paul Valery MONSIEUR TESTE , 1896.
 ヴァレリー/清水徹訳『ムッシュー・テスト』岩波書店、2004年。

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ムッシュー・テストみたいな人がもし近くにいたら、いやおうなしに引き込まれてしまうような、引力を持っていると思う。
でも、友達にはなりたくないし、なれそうもない。・・・

recommend:
>ムージル『特性のない男』 (人間でありながら、人間でないような)
>ドストエフスキー『罪と罰』 (人間を超えようとして、超えられなかった)
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『ボヴァリー夫人』フローベール
ボヴァリー夫人

[現実から逃げ切る]


「難破船の水夫のように、生活の孤独のうえに絶望した目をさまよわせつつ、 はるか水平線の靄のうちに白い帆のあらわれるのをもとめていた」(本文より)


現実世界とうまく折りあいをつけられない女性が、夢の世界に生きて死んでいく物語。
現代の小説技法、たとえば写実描写などが使われている、正統派小説。

当初、19世紀のフランスでは、主人公が不倫する描写が問題となって、作者が罪に問われたらしい。
裁判の時、フローベールが「Madame Bovary, c'est moi/ボヴァリー夫人は私だ」といったことは、あまりにも有名。
今では、質はともかくとして、これより刺激的な物語はいくらでもある。
時代は移ったのだなあとしみじみとする。


ボヴァリー夫人、エマみたいな人って、けっこう多いのではないかと思う。
現実と理想の違いに悩み、逃げることを選ぶ人。
彼女の場合、逃げる先は恋とぜいたくな買い物だったが、 人によっては宗教だったり二次元、ネット世界だったりするわけで。

人生はたいていが思うようにはいかない。
さて、それにどう対応するか?
うまく折り合いをつけるか、あきらめるか、別の世界に逃避するか。
それは人それぞれの選択である。
逃げる選択、それは先の見えない霧の道を走り続けるようなものだろうか。
帰ることもできなくて、ひたすら走って、疲れて、なにかにつまづいて転ぶ。
そうしたらたぶん、簡単にはもう起き上がることができない。…

エマのすごいところは、徹底的に現実から逃げ切ったところではないかと思う。
フローベール自身もまた、ほとんど外に出ることなく、小説を書き続けた。
冷静に、世界を少し遠くから見つめる視線をのぞく作品。


...Gustave Flaubert MADAME BOVARY , 1857.
 フローベール / 生島 遼一訳『ボヴァリー夫人』新潮社、2000年。

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世界と折り合いをどうつけるか、これはとても興味のあるテーマ。
個人的には、あんまり逃げる選択は好きではないのだが、でもわかる、という話。
あまりにスタンダードな小説だものだから、最近の傾向からちょっと離れて新鮮だった。
でも、ずっとは印象には残らないだろうなあ。・・・

recommend:
>トルストイ『アンナ・カレーニナ』 (不倫、そして同じ結末)
>ジッド『狭き門』 (神への愛に逃げる)
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『悲しみよこんにちは』サガン
悲しみよこんにちは


[思い出す、悲しみは]


19歳の時に書かれ、フランス文学界から絶賛を浴びた、サガンの処女作。
読んだあとのざっくりとした感想は「ああ、フランスだなー」。
全体的に、なんともフランスの少女らしいかわいさ、気まぐれ、痛み、残酷さな雰囲気がある物語。

大人になりきれない、なれない、なりたくない。
自分にも、かつてそういう時代があったことを思い出す。
幼い頃は、大人がとても「大人」に見えたけれど、今自分が同じ年にたった時、大人も必死だったのだと分かる。

主人公は、いわゆる「大人の女性」である父親の愛人に反発し続ける。

「彼女はまっすぐに、動かずにしゃべれる女たちの一人だった。
 私には、長いすだとか、手持ち無沙汰につかむ物だとか、タバコだとか、 足をぶらつかせるとか、ぶらついている足を眺めるとかが必要だった。」(本文より)

大人の女性と、自分との対比が絶えず絶えず行われて、そして迎える結末。


昔を思い出すような口調、ふと現実に帰る瞬間があって、それが切なさを増している。
水色とバラ色の石を拾って、それを今眺めているシーンが、お気に入り。
青春がすでに過ぎ去ってしまっている人にとって、それを思い出す時には、きっとこんな気持ちになるに違いない。

「今日、この石は桃色に、暖かく私の手の中にあって、私を泣きたくさせる。」


...Françoise Sagan BONJOUR TRISTESSE , 1954.
フランソワーズ サガン/朝吹 登水子訳『悲しみよこんにちは』新潮社、1955年。

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薄さ、青春小説という肩書きから、軽く読み始めたのだが、思ったよりも良かった本。
フランス映画のような、物憂げさ、色彩がすてき。

ike-kana.jpg

河出書房から、池澤夏樹セレクションで出ましたね。
こちらの表紙もなかなかいいと思う。


recommend:
>コクトー『恐るべき子供たち』 (青春の痛みと恋心)
>サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』 (男の子版、悪ぶる青春)
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『類推の山』ルネ・ドーマル
類推の山 (河出文庫)

[より高いところへ行きたい]


『非ユークリッド的にして、象徴的に真実を物語る登山冒険小説』(冒頭)


フランスのシュルレアリズム作家による、未完の物語。
わりと冒頭の予告通りの話。

この話は人類の行動について、語ろうとしている。
なぜ人は、祈り、望み、努力を重ねてきたか?


「類推の山」と呼ばれる、地図上にはない、しかし最も高い山があると考え、雑誌に投稿した人がいる。
「類推の山」は、<天>と<地>を結ぶ、象徴的な山であり、「実在」しなければならず、また人間が到達可能でなければならないという。
山は、地図には載っていないが、確かに存在するという仮説のもと、信じて集まった人々が、計算に基づいて、冒険に乗り出していく。

冒険物語、SFのような「類推の山」の位置把握と行き方(海賊王の漫画を思い出した)、また実際にあっさりとたどり着いてしまうあたりが、「え、そんなんでいいの?」と思わせられるが、これは象徴の話らしいので、そこは打ちやって読む。
しかし、山に登るのはどえらく、難しい。

山は登山としての目的であり、また「天=高次」にたどり着きたいという、人間の果てしない望みの象徴でもある。
高次の次元への人類の接触を望み、それのために全ての努力を注ぐ。
さて、その心は?という話。

山に住む高次の人々は問いかけてくる。
「で、あなたはいったい何を探し求めているのか?」

その答えは、分からない。
この小説は未完だし、そして人類もまたその答えにたどり着かない気がする。


...René Daumal  LE MONT ANALOGUE , 1956.
ルネ・ドーマル『類推の山』 河出書房、1996年。

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この本には、「雲をつかむような」という形容句が似合う。
未完であることもそうだが、分かりやすいようで分かりにくい。
人物も全員浮世離れ、どちらかというと、神話に近いかも。

この本は、どちらかというと表紙で読む気になった。
表紙の絵は、好きな画家の一人、ルネ・マグリット「ピレネーの山」。


recommend:
>アンドレ・ブルトン『ナジャ』 (フランスのシュルレアリズム)
>ボルヘス『バベルの図書館』 (図書館で宇宙を語る)
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『夜の果てへの旅』 セリーヌ
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[Nonを言い続けたその果ては]


フランスの作家による、レアリスム文学。

著者の遍歴は変わっていて、医者をやったり、戦争に従軍したり、フランスを批判して追われたりしている。
本書の主人公バルダミユも医者で従軍経験があり、著者のひとつの映し鏡として描かれる。

読み終わった後に、セリーヌの墓石にはただ、"Non"の一言だけが刻まれているらしいということを知った。
このことに、ものすごく納得する。
セリーヌは、「夜の果てへの旅」は、すべてに"Non"をつきつけてくる。


「果て」とはなにかと考える。
それはたぶん「一線」のようなもので、その向こうが「果て」なのだろう。
人間は容易にそこを越えられないが、一度向こう側にいってしまった人間は、もう越える前には戻れない。そんなものだと思う。
文中に時折出てくる「果て」のフレーズはどれも、深い森の奥から聞こえてくる嘆きのように、じわりと重い。

主人公バルダミユ、そしてその友ロバンソンは、生涯かけてその一線の淵をさまよい歩く。
人生は夜、一箇所にとどまれない放浪者、世界にある普通のものには相容れない。

戦争を否定し、偽善を否定し、友も家族も愛も嘘だとはねつける。
その姿は、非常に正直で潔癖で、常人ではまねできないレベルのものだ。
だけど否定ばかりのその先には、さていったい何が残るという?

すべてを否定して、否定して、歩いていく。
あるべき姿、希望、救いなんてものは、この本にはない。
だからこそ、ある意味では誰にでも分かり、また分かりたくないことなのかもしれない。

振り返り、道を引き返せば、暖かい光の町が待っている。
だけどそこに自分の居場所はなくて、ただひたすら町から遠のく、暗い道の先へと進むことを選ぶ。
そんな虚しさ、もの悲しさを見送るような本。

...Louis-Ferdinand Céline Voyage au bout de la nuit, 1932.

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印象として、はじめはずいぶん陰惨な話なのだろうと思っていた。
読後の気分は最悪だろうと覚悟していたのだが、むしろ悲しさが先にたった。
ある程度の読書をこなしていないと、きついタイプの本ではあると思う。(長さも上下あることだし)

「一線を越えるか否か」というテーマは興味のあるところなので、私はおもしろく読んだ。
アフリカ、戦争、一線を越えるという話は、大御所ではコンラッドの「闇の奥」があるが、私はコンラッドよりセリーヌの方が好き。

踏み越えるか、越えないか。
ぎりぎりの選択は、気がつけば目の前にあったりする。

recommend:
コンラッド『闇の奥』 (さて、一線を?)
>カミュ『転落・追放の王国』 (問題をつきつけ、えぐる)
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『地下鉄のザジ』レーモン・クノー
地下鉄のザジ (中公文庫)


[簡易遊園地のような]

フランスのシュルレアリスム作家代表、レーモン・クノーの作品。
文体実験集団、「ウリポ」の代表格として、文体でどこまで遊べるかを追究した、おもしろい作家。
いろいろな実験小説を書いているが、本作はかなりぶっちゃけた口語を使ったことが実験だったらしい。
翻訳ではいまいちわかりにくいが・・・

あらすじ。
地下鉄に乗りたい少女ザジが、パリにやってくる。
だけどあいにく地下鉄はスト。
ザジは文句をたれ続けながら、パリの街を珍妙な登場人物とともにかけぬけることになる。

少女ザジはめちゃくちゃ口が悪く、決めセリフは「けつくらえ!」。
チャーミングというより、ふてぶてしい。
訳のレトロさもあいまって、奇妙に笑える。
鸚鵡は「しゃべれしゃべれ、それだけ取り得さ」と、意味がありそうでなさそうな哲学者みたいなことを話す。

私はこの作家のちゃめっ気が大好きだ。
教訓めいたことを言ったりする気が毛頭ないところもいい。

登場人物も、世界そのものにしても、繰り返されたり脈絡がなくなったりで、ちっとも落ち着かない。
町のはずれに現れた簡易遊園地みたいな、不思議なテンションの高さが、読んでいてとても楽しかった本。


...Raymond Queneau ZAZIE DANS LE METRO , 1959.

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地下鉄のザジ


この作品は映画も大好きだ。
全体的に、映画の方がおしゃれな感じ。

おかっぱ少女ザジが、しゃべり続けながら、おじさんにエスカルゴの殻を投げつけ続けるシーンは、今まで見てきた映画のシーンの中でも、トップ10に入る印象の強さ。


recommend:
>レーモン・クノー『文体演習』 (ザジとはまた違う実験小説。非常にゆかい)
>ジョルジュ・ペレック『人生使用法』 (ウリポメンバー)
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『ペスト』カミュ
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[同じ死の条件の前で、人がそれぞれ選択する道]

アルジェリア生まれのノーベル賞作家、カミュによる長編。
もはや驚異的な作品。
架空の設定で、ここまでリアルな人間像を描けるとは。


「死」という、絶対的に逃れられないものを目の前にした時、人はどんな行動をとるか。
ペストには、善もなく悪もない。
ただ、人々を容赦なく分断して、同時に人びとを強制的に平等の条件の下に置く。
死の恐怖は、誰にでも等しく訪れる。

その中でどう生きるか、どう選択するか?
人の命そのものに意味はなくとも、「生きること」の価値はあるのだとしたら、ペストの壁の中のような、極限の状況で、そうしたものは現れるように思うのだ。

この物語には、実に多くの人間が、そして多くの人間の心が登場する。
「壁の内の人間」と「壁の外の人間」。
「嘆く人間」と「動く人間」。
「生きる人間」と「死ぬ人間」。
「信じる人間」と「信じない人間」。
「帰る場所のある人間」と「帰る場所を失った人間」。

ここには、同じ舞台で、さまざまな「選択肢」、そして人々の「選択」が提示されている。
自分だったらどうするだろう。
この本を読むと、意識をペストの壁の中に放り込まずにはいられない。


...Albert Camus LA PESTE, 1947.

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ペストといえば、西洋にとっては死の恐怖と同じ意味を持つ。
「Brack Death」、黒死病。
重く暗く、逃げることもできない定めとしての死のモチーフ。
この話はいわゆる象徴としてのペストだけど、鳥インフルエンザなどのパンデミックが予想される大型伝染病の危機が静かにせまってきている現在、あながち象徴とも言い切れない意味合いを持っているかもしれない。

recommend:
>フランツ・カフカ『城』 (不条理に飲み込まれる)
>V.フランクル『夜と霧』 (圧倒的な死の恐怖の前に立つ人の心)

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