2008.08.25 Mon

[アフリカン・マジック]
ナイジェリアの作家によって描かれる、アフリカ伝承の集大成。
やし酒を飲むしか能のない男が、死んでしまったやし酒造りを探しに、死者の国に旅立っていく。
死者、神様やら骸骨やら変な動物やら、ふしぎな登場人物と世界観。
博物館にあるアフリカ美術が、息吹を持って動きだしたような、そんなおもしろさがある。
主人公が、やし酒を飲むしか能がない、という、この潔さ?がまずすごい。
裕福だから、専属の酒造りを抱えて、酒を飲む一生を過ごしてしまうことができる。
それでいいんだ、というところに、まず素朴に驚いた。
ひとつの物語ではなく、これまでのアフリカに伝わるいくつもの物語によって、この本は成り立っている。
くるくると場面が入れ替わって、物語の筋もねじ曲がって。
理路整然としたプロットなんてものはないけれど、別になくてもいいんだなあと思う。
日本で言うなら、遠野物語や日本神話をつなげてひとつの本にした、というところだろうか。
古来の伝承は、どこの国でも似ているというのはおもしろい。
なにか、人間の共通言語的なものがあるのかもしれない。
この本の経緯は、少々込み入っている。
本書は英語で書かれて、ロンドンで出版された。
西欧圏では絶賛されたのだが、本国ナイジェリアでは、「拙い英語を使って、アフリカの原始っぷりを見せるなんて、恥だ」なんて批判もあったらしい。
確かに、その経緯にオリエンタリズム的なものはあるかもしれない。
西欧の影響がないアフリカを、西欧人は求める。底にある身勝手さは認める。
だけど自分たちの持つ伝承を、「原始的で劣っている」と、アフリカ人自身が評定するのは、なんだか違うような気がする。
神話や伝承は、どこの国でも似たようなものを持っている。
この本のおもしろさは、土地と時代を越えて、異国の読者の手元にやってきたということなんだと思う。
ゆるくゆるく。酒は人類には不可欠だ。
...Amos Tutuola THE PALM-WINE DRINKARD, 1946.
エイモス・チュツオーラ/土屋哲訳 『やし酒飲み』晶文社、1998年。
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recommend:
>アイザック・ディネーセン「アフリカの日々」
>レーモン・ルーセル「アフリカの印象」 (西欧目線のアフリカ)
>柳田國男「遠野物語」 (民間伝承)
>「古事記」「日本書紀」 (日本神話)
やし酒は、やしの木の樹液そのまんまから造る。
南洋の島に行った時に飲んだ気がするけど、あんまり覚えていない。…
都内でナイジェリア料理を発見。やし酒も置いてあるようです。今度行ってみようかな。
African restaurant&bar Esogie
こちらは、アフリカ美術館。HPがかわいい。
The Museum of African Art(英語)

池澤夏樹個人編集バージョン。
こちらは、「アフリカの日々」と対になっている。
西欧人が書くアフリカと、アフリカ人が書くアフリカ。
2008.07.14 Mon

[日常の分岐点]
カナダを代表する作家による、短篇小説。
アリス・マンローは「短篇小説の女王」と呼ばれて、タイム誌でおなじみの「世界でもっとも影響力のある100人」に選ばれたりしている。(ちなみに2008年の1位はダライ・ラマ)
本書は、彼女が70歳の時に発表されたもの。
おふくろの味が自分のつくるものと一味違うように、この物語もほかの作家とはなにか一味違う、「深い味」のようなものがある。
アリス・マンローは"The point of no return"、人生の分岐点、決定的瞬間を描くことがとてもうまい。
幸せな新婚生活が、ケーキの行方不明というごく小さな出来事で、なにかがズレる。
しかもそうした瞬間は、他の人には決して分からないような一瞬に、ごくごくありきたりな日常の出来事の中に起こる。
何も変わっていないように思えるのだけれど、それまでとは何かが決定的に変わってしまった、という感じに。
時間軸が10年単位であちこち飛ぶものだから、最初はそのテンポにとまどうけれど、そのうち長編映画でも見ている気分になってくる。
一文一文が、手のひらにじわりとくる重さを持っている。
いいなと思った作品は、物語としておもしろい「恋占い」、情景描写が美しい「浮橋」、最後の一文に収束する「クイーニー」。
ジュンパ・ラヒリと似たような雰囲気を持っているけれど、アリス・マンローの作品には、人生を眺める大きな時間軸がある。
それは作風の違いではなく、人生経験の差かもしれない。
...Arice Manro Hateship,Friendship,Courtship,Loveship,Marriage , 2001.
アリス・マンロー/小竹由美子訳 『イラクサ』 新潮社、2006年。
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アメリカとカナダは距離的には近いけど、その気質はけっこう違う。
カナダはこののんびりとした、だけど自活する意識の高い人が多いように思う。
文学作品でも、その差はけっこうはっきりしている。
カナダの作品は、自然描写も多いし、日本になじみやすいかも。
reccomend:
>アリステア・マクラウド『冬の犬』 (カナダ生まれのじんわりとした雰囲気の物語)
>チェーホフ『チェーホフ・ユモレスカ』 (短編の名手 inロシア)
2008.06.11 Wed

[犬と負け犬]
「なんという屈辱だ」
「あんな大志を抱きながら、こんな末路を迎えるとは」(本文より)
南アフリカ生まれ、アフリカーナの作家による「負け犬」小説。
著者は、ブッカー賞史上初の2度受賞、ノーベル賞受賞など、見るも華やかな遍歴。
簡潔な文章で、暴力、性、自己犠牲を描く作品を作る。
本書の舞台は南アフリカ。
自分の生徒に手を出した大学教授が、その職を追われ、田舎の農園に落ちのびていくという話。
プロット的には、どこぞのメロドラマかと思わせるが(帯の紹介も、どうにも誤解をしやすい)、どちらかといえば、職を追われる転落自体はたいした問題ではない。
なぜなら、当の教授本人は、女子大生との問題や、自分の性欲に、ちっとも悪びれていないから。
さあ裁け、と諮問官にけんかを売ったり、バイロンに逃避してみたり、ひねくれて頑固、どうしようもないじいさんだなあと半ばあきれてしまう。
しかしこの人物は、自分にふりかかる災難から逃げようとはしない。
嵐が過ぎるのを待つように、災難にひたり、やり過ごし、そしてその中でなお生きる。
教授とその娘ルーシーの、恥辱まみれの中で淡々と生きる、その姿がなんとも不思議な話。
彼の著作を読んだのは、「夷狄を待ちながら」以来2作目だが、どうにもこうにも、彼の文章は読んでいて、しんどい。
文章そのものはいたって簡潔、リアリズムの文体を使っているから、読みやすい部類に入る。
しんどいと感じるのは、どちらかというと描かれているものの方か。
たとえば、暴力に対する屈服。
田舎の娘の住む農園に行き着いた主人公は、暴漢に家を襲われ、娘は陵辱される。
不思議なのは、こうした暴力にたいして、まるで嵐が過ぎ去るのを待つしかないように、二人(特に娘の方)が耐え忍んでいることだ。
生きるために必要だから、強い者に従うという理屈は、自然の摂理としては理解できるけど、どこかでそれを認めることを否定したがる自分がいる。
「力」で成り立つ弱肉強食のシステムを、文明人と称する人間は、「人権」やら「公共性」やらの言葉でうまく飾り、不協和を緩和しようとする。
だから人間世界で、ここまでシンプルなシステムを見せつけられると、ぐらりと揺れて、しんどくなってくる。
実際、本作には「アフリカを暴力的に描きすぎている」なんて批判も出たらしい。(なんとも的外れな批判だとは思うが)
白人男性(教授)と黒人女性(女子大生)、黒人男性(農園の下男)と白人女性(教授の娘)、そのふたつの支配関係が、物語の途中できれいに切り替わる。
この関係を、歴史をさかのぼる文化的な陵辱、アパルトヘイトの問題につなげることもできる。
正直なところ、黒人と白人の対立がどれほど根が深いものなのか、蚊帳の外の人間である自分には、とうてい理解は追いつかない。
教授の娘ルーシーが、暴力と陵辱に会いながらも、そこから逃げる道を選ばずに、田舎のルール、力関係のルールに頑固に従おうとするあたりは、歴史への配慮なのかなんなのか、理解不能の心理だった。
全体的に、「犬」感のただよう小説(日本語がおかしいが、そうとしか言いようがない)。
負け犬の教授が、やがて犬の世話をするようになる。
「犬のように」
「ええ、犬のように」
という、なんとも不思議な親子の会話があるし、最後のシーンは、もはやどちらが犬なのかわからなくなってくる。
救いもなく、最後まで下りっぱなしの話だが、それでも読後感はそれほど悪くない。
主人公は罰せられるのなら、どこかで救いがあるはずだという読者心理をきれいに裏切っておきながら、それでもなお淡々とこのおじさんは生きていくのだろうという結末。
恥辱にまみれたら、死を選ぶのか、はたまたそうでないのか。
後者の、あるひとつの答えを見せてくれる話。
... J.M.Coetzee DISGRACE,1999.
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面白いと思うのは、こうした恥辱を受けた場合、死を選択することも往々にしてあるだろうと思うのに、この作品ではちらりとも自殺の影が見えないところ。
もし彼らのシチュエーションに日本人が陥ったとしたら、おそらく自殺の選択肢が入ってくるはずだ。
それは文化の違いか、個人の問題か?さてはて。
recommend:
>カフカ『審判』 (最後のKの台詞とこの作品はリンクする)
>ブレヒト『三文オペラ』(本書とまったく逆、悪党が最後に唐突に救われる喜劇)
2008.05.29 Thu

[自然を描く、自然にひたる]
トーベ・ヤンソン、彼女の小説は、「書く」より「描く」という言葉がにあう。
フィンランドといえばムーミン。
トーベは、そんなステレオタイプさえ生み出した、フィンランド生まれの女性作家。
「ムーミン」シリーズは、アニメでおなじみの人も多いだろう。
かばのような(失礼)ムーミンと、さすらいのスナフキン、そのほかゆかいな仲間が繰り広げるほのぼの物語・・・それが、日本におけるムーミンの一般的なイメージだろうと思う。
ところがあのアニメ版ムーミンは、本当のムーミンやトーベ・ヤンソンの作風とはちょっと違っていて、原作は、もうちょっとシュールで、野生味がある。
本書は、そんなトーベの自然へのまなざし、たくましさが楽しめる。
日常に、ふらりとトーベ・ヤンソンの短編を読めて、幸せだなあと思える。
どの話も短く、しかも良質のものが選ばれているから、気負わずに読みたい時にさらりと読める。
トーベは、長い間、岩だらけの孤島、クルーヴハル島で過ごした。
彼女の自然への視線は、どこか人間というよりは、動物的だ。
ごつごつとした岸壁、そこに生えるたくましい野生の植物、生物、そうしたものへの描写が、いきいきと描かれる。
老いも若いもひっくるめたような感性が光る。
ふと息抜きのように読みたくなる本。
...Tove Marika Jansson.
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個人ごとだが、トーベ・ヤンソンは、私のもっとも好きなイラストレーターの一人だったりする。
ムーミンシリーズの彼女の挿絵は、大気の色まで見えそうで、とにかく迫力がある。
一度も彼女の作品を見たことがない人は、ぜひ本屋でちらりとのぞいてみてほしい。
recommend:
>トーベ・ヤンソン『少女ソフィアの夏』
(児童書だけど、これもよい。ソフィアとばあちゃんの対等な話っぷりがおもしろい)
>ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』 (灯台で静かに暮らすこと)
2008.05.21 Wed

[ガイジンさん、いらっしゃい]
ものすごく舌をかみそうな名前の、タイ系アメリカ人による短編小説。
書かれている言語は英語だが、内容はタイ人の目線。
そこが、アメリカやイギリスでは好評らしい。
おそらく、自分たちの持たない「目線」を描いた、という点でものめずらしいからかな、と思う。
観光客は、観光客の目線でものを見る。
実物を見ているようでいて、ガイドブックに載っているものを見ている。
・・・なんてことは、100年前、ブアスティンなんかの頃から言われていることであって。
でも、それでもやはりそうかもしれない、と思うことがある。
自分自身の旅での経験からも、そう思う。
だから、観光客を見る現地の人の目線を見せられると、はっとする。
現地の人と仲良くなったつもりになっても、彼らが現地語で話し合っているのを聞いたときに、強烈な疎外感を感じるように。
そう、溝は容易に埋まらない。
タイの人々が、これを読んでどう思うのかはわからないけれど、旅をする人間なら一度は感じたことのあるざわめきと疎外感を、この本の中に見つけることができるのではないだろうか。
個人的に印象に残ったのは、
タイの人々から見た異国人への視線「ガイジン」「観光」、
タイで暮らす異国人の心を描いた「こんなところで死にたくない」、
タイ独特のモチーフ「プリシラ」(カンボジア難民)、「闘鶏者」(闘鶏)、など。
この本には、タイの人々に向けた愛惜の目線もあるけれど、外国人への視線をより強く感じる。
かなり「ガイジン」向けで、内容それ自体もタイの「観光」らしい。
描かれている内容も、本の存在も、西欧圏への皮肉な目線がこめられている。
この本を愛でる西欧人は、わかっているようで、やっぱりわかっていないんじゃないかと、そんな風にも思う。
とはいえ、アジア系の人の海外文学はまだまだ少ないので、一読をおすすめする。
「観光」だっていいじゃないか!
...Rattawut Lapcharoensap SIGHTSEEING ,2006.
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アメリカには伝統的に大学に「創作学科」というものがあって、そこで小説家の養成をしている。
最近では、ピュリツァーを取ったジュンパ・ラヒリなんかが有名どころ。
ラッタウットもその一人で、だからやっぱりどこかラヒリなんかと通じるものがある。
構成がきれいで、越境文学の視点を持っている。うまいと思うけど、並べて読んでみると、やっぱりどこか「学校ぽい」影がちらほらするように思う。
国際的で、うまいと思うけど、どこか小粒にまとまりすぎるという感じは、自分が通っている大学によく似ているなあ、とふと思った。
recommend:
>ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』 (インド系アメリカ作家。かなり同じ傾向)
>ポール・セロー『ワールズ・エンド 世界の果て』 (これも異国でずれこむ話。村上春樹訳)
2008.04.30 Wed

[忘れない]
ハンガリーの作家、アゴタ・クリストフの処女作。
シンプルな文体は、著者の亡命先、フランスの言葉で書かれているため。
だから、彼女の物語は内容も含めて「亡命文学」と呼ばれる。(もっとも、私はこの呼び名はあまり好きではないが)
彼女の作品は、文体も、心も、流浪せざるをえない人のものである。
自分探しに海外に出てしまうような日本人の感覚とは、決定的に異なる類の。
主人公の双子は、自分たちのことを「ぼくら」と呼び、二人が別のことをする時は「ぼくらのうちの一人ともう一人」という言い方をする。
お互いを分けるための名前は必要ないのだと思うと、なんとも不思議で、少し不気味でもある。
彼らは、環境に慣れるために「練習」をするが、それは心を殺すための練習だ。
それを、「大きなノート」に書きつけていく。
おそらく戦争下では、痛みや悲しみや、略奪や殺しといったことに対して、心を麻痺させないとやっていけない。
人々は知らずのうちに、心に麻酔を打ち込み、忘れようとする。
忘れたほうが楽だからだ。 忘却は人間の特権でもあり、ぬぐいきれない欠点でもある。
対して、「ぼくら」は「絶対に忘れない」という。
痛みを知り、そして忘れない。
それは、麻痺したことを認識せずに、何もかもを忘れようとすることよりも、ずっとシビアな選択だろう。
人の欺瞞や忘却、人間の持つ闇に対して、双子は目をそらさない。
善悪の判断基準はなんだろう?そんなことを考える。
題名は「悪童日記」だが、彼らは悪童というには、なんか違う気がする。
不良は、自分のことを不良だと思っているうちはまだかわいくて、淡々とこなし続ける人の方が、よほど怖い。
双子の彼らはあきらかに後者で、あまりにも「子供」でなさすぎる。
前の世紀で、人間は多くの傷を負ったはずなのに、今の自分のいる環境は、まるでそのことを忘れてしまっているように思える。
双子の目がじっとこちらを見ているようで、背中の後ろがもぞり、ひやりとする。
...Agota Kristof LE GRAND CAHIER 1986.
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recommend:
>アゴタ・クリストフ 『二人の証拠』『第三の嘘』 (本書の続き)
>ポール・オースター 『最後のものたちの国で』 (寓話の世界で生きること)
>カミュ『ペスト』 (すべての願いをおしつぶすものの中で)