『悪魔の涎、追い求める男/コルタサル短篇集』フリオ・コルタサル
悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集


[西欧と南米の雰囲気]

ベルギー生まれのアルゼンチン人の作家による短篇集。
同じアルゼンチンの作家、ボルヘスと並ぶ、短篇の名手とされている。

著者は30代の時にフランスに渡り、以後フランスで生活している。
読んでいて、これまでのいわゆる「ラテンアメリカ文学」とどこか雰囲気が違うな、と感じたのは、彼のこのヨーロッパ性かもしれない。
実際、本書におさめられている短篇の舞台は、ほとんどがヨーロッパ。
でも、その幻想的な語り口は、南米的。
南米文学と西欧文学のハーフのような、そんな印象を受けた物語。

図書館にて、水声社から出ている『すべての火は火』という本を見つけたところから、コルタサルを知った。(題名が格好よかったので)
そっちを読んでいたら、岩波でも手ごろな文庫が出ていると知ったので、こちらを購入。

両方読んだ感想としては、『すべての火は火』との共通の作品がやっぱり良かった。
以下、気に入ったものの感想。


「南部高速道路」
信じられない渋滞でパリに帰れない人びとのつかの間の非日常の話。
「日常」から「非日常」へ、そして「非日常」が「日常」に。人は慣れる。
人びとが、名前が出ないで車種と性別で呼ばれているあたりもおもしろい。

「正午の島」
ギリシャの小さな島に執着する飛行機の添乗員の、短い物語。
最後にひっくり返される。

「ジョン・ハウエルへの指示」
突然舞台に上らされ、演技をやれといわれる主人公。
思えば人生がそういうものかもしれない。気がついたら、事件の中心にいるという不思議。
シェイクスピアだって言っている。「全世界は舞台であって、すべての男も女もその役者にすぎない」。

「すべての火は火」
現代パリの一室の出来事と、ローマのコロッセオの出来事が平行して進んで、収束する話。
題名そのまんま。すべての火は火に。


短篇は、長篇と読み方が違うなあとしみじみ思った。
長篇は読み飛ばす部分があっても大丈夫だけど、短篇はそうじゃない。
じっくり、長篇より少しだけ時間をかけて読む。


...Julio Cortázar Todos los fuegos el fuego, 1966.
 フリオ・コルタサル/木村 栄一訳『悪魔の涎、追い求める男/コルタサル短篇集』岩波書店、1992年。

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ボルヘスは、どちらかといえば、人間よりも世界やしかけにスポットが当てられる。
コルタサルはその逆で、世界よりも人間の行動に興味の焦点がある。

似ているようで、違っている。
比較文学もきっとおもしろいんだろうなあ。

recommend:
>ボルヘス『砂の本』 (お師匠?の作品。幻想、世界の構成系)
>フアン・ルルフォ『燃える平原』 (南米短篇だけど、こうも雰囲気が違うとは)
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『ペドロ・パラモ』フアン・ルルフォ
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[死者は語る]


「誰しも同じ道を行くんだな、みんな去って行くんだ」(本文より)


寡作のメキシコ人作家による、ラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなったと言われる、古典。

『ペドロ・パラモ』、死者の記憶の断片だけでできた話。

顔も知らない父親、ペドロ・パラモを、名だけを頼りに探しにきた「おれ」が、コマラというさびれた町にたどり着くところから物語は始まる。
会う人、話す人、みんなたいてい死んでいて、しかも語り手もどんどん移動しながら、死者の記憶の断片が積もりに積もって、ぐるりと廻って収束する。

死者は常に周囲にひそめいている。
土の中でざわめき、嘆き、過去と隣人を思いかえしている。
南米の風土は独特だな、と、ラテンアメリカ文学を読むたびに思う。

なぜこうも淡淡と人が死に、殺されるのだろう。
「メキシコの現実を描出し」と説明にあるが、日本にいる感覚からしたら、これが現実とはとても思えない。
だからラテンアメリカ文学は「魔術的リアリズム」と呼ばれるのだろう。

フアン・ルルフォは、メキシコ生まれ。
彼は生涯で、2冊の本しか出さない寡作の作家だった。
一冊は短篇集『燃える平原』、そして本作『ペドロ・パラモ』。
特にこの『ペドロ・パラモ』は、ラテンアメリカの文筆者によって、『百年の孤独』とともにラテンアメリカ文学のベストに数え上げられたという。

日本では、ガルシア・マルケスは非常に有名であるにも関わらず、(『考える人』のランキングを見てもそうだ)、フアン・ルルフォは比べてあまりにも無名じゃなかろうか。もったいない。

生者と死者、現在と過去、すべての断片をごちゃ混ぜにして、ひとつの袋に放り込んで、ペドロ・パラモにまつわる話(もはや神話のようでもある)が完成する。
ガルシア・マルケスとその手法は似ているけれど、極力無駄を省いた硬派な文体が、マルケスとは異なるところ。

語り手もぐるぐる変わるので、最初はけっこう読みにくいが、くせになる(ラテンアメリカ文学は大体そうだ)。
かなり凝ったつくりで、後から読み返すと、「ああ、これがあれとつながっているのか」みたいな発見がある。


「報いを受けはじめているんだ。早いとこけりをつけるにゃ、今からはじめた方がいいだろう」(本文より)

ペドロ・パラモにまつわる人びと、さてみんな土の中。
小説の終わりから次を予測させない。ぐるぐる廻って土の中。


...Juan Rulfo PEDRO PARAMO ,1955.


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recommend:
>フアン・ルルフォ『燃える平原』 (たった一つの短篇集)
>フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』 (誰もいない町、死がそこにある)

以下、ラテンアメリカ文学で見られるあの独特の風土について、限定的な範囲で覚書。

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『予告された殺人の記録』ガルシア・マルケス
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[無関心は人を殺す]


「別けても、彼が絶えず不当だと感じていたのは、 文学には禁じられている偶然が、人々の間でいくつも重なることによって、 あれほど十分に予告された殺人が、行われてしまったことだった」(本文より)


ガルシア・マルケス自身が「自分の最高傑作」だと呼んだ、実在の事件をもとにした物語。
「百年の孤独」も衝撃だったが、これはこれで、すさまじい。


「明日俺はあいつを殺す」と大勢の人の前で予告が行われる。
さて、こんなシチュエーションなら、予測される結末はなんだろうか?

ふつうなら、その予告は阻止されるだろうと思われる。
殺人予告者を説得し、予告された者に警告をする。
あらゆる対策が考えられ、殺人は実現しない。
そう、ふつうならこう考える。
さてはて、この本の「予告された殺人」の結末は?

時折世の中には、舞台脚本なのではないかと思うような、偶然が積み重なって起きた悲劇がある。

「誰かがなんとかするだろう」「私には関係ない」「冗談だろう」・・・
誰もが持っている小さな欺瞞、怠慢、無関心。
そうした人々の思惑と、冗談のような偶然が、モザイクとなってひとりの男を殺害する。
どれかひとつでも違っていたら、結末は変わっていただろうと思う気持ちと、結局は同じ結末になっていたのではないかと思う気持ちが交錯する。

人は見たくないものは、見ないふりをすることができる。
まさに、事実は小説より奇なり。


...Gabriel José García Márquez Crónica de una muerte anunciada, 1981.

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2007年に、電車での暴行事件を、その場の誰もが止めなかったという事件が起きた。
なぜ目の前で起こっている事件を誰も止めなかったのか?
この本は、そんなにとっぴな事件をあつかっているわけではない。
人の心と社会は、ふしぎな謎に満ちている。

reccomend:
>トルーマン・カポーティ『冷血』 (作家によるノンフィクション)
>安部公房『箱男』 (人は見たくないものは見ない)
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『百年の孤独』ガルシア・マルケス
百年の孤独

[時は、歴史は、人はめぐる]

ラテンアメリカ文学を不動のものにした、まさに長編、まさに物語。
この本は小説ではない。
村のおばばが、夜な夜な語り継ぐ、摩訶不思議な「物語」のような、そんな雰囲気が満ちている。
物語は架空の町マコンドに住むブエンディア一族の、百年の歴史を追っていく。


さて、百年という歳月をかけて、人間は何を成しえるか?

20世紀と21世紀を比べると、あまりにも多くのことが変化、進歩したように思える。
しかし、人間と、その心はどうだろうか。
昔の小説を読んで人々が感動するように、歴史の中で同じ過ちが何度も繰り返されるように、不可逆的・直線的な文明とは違い、人と歴史はぐるぐると、ねじれながら回っている。

ブエンディア家は、百年かけて孤独の円環から抜け出す。
アゲイン、そしてまたアゲインと、まるでゲームのリセットボタンのように、符号がかちりとそろうまで、時間の円環は回り続ける。

これは誰もが言うことだが、冒頭にある系譜を読みながら本を読むことは勧めない。
強く、勧めない。
ほぼ同じ名前の人間ばかりで混乱するが、人も時代もごちゃごちゃになって、忘却していく、その混乱がこの物語の「しかけ」でもある。
「When in Rome, do as the Romans do.」ではないが、この物語を読むならば、こうした時間のルールに従ったほうがおもしろい。

最初はそのボリュームに驚いたものだが、読んでいる最中は、スケールがあまりにも大きくて、目がくらんだ。
歴史は繰り返し、人は忘れていき、栄えるものは滅ぶ。
そんな時間の物語は、読んでいる最中よりもむしろ、読んだ後にじわりと重さを増していく。


...Gabriel José García Márquez Cien años de soledad , 1967.

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読み終わった瞬間、空が落っこちてくるみたいな衝撃を受けたほぼ唯一の本。
まさか成人してからもこんな読書感をえられるとは思ってもみなかった。
強烈な印象は、たぶん一生ものになる。

ちなみに、トップには新潮社から出ている新刊を冒頭に載せたが、長らく出回っていた方の表紙がこちら。

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個人的には、この物語をぴったり表していると思うので、こちらの方が好き。


recommend:
>パール・バック『大地』 (血族の歴史と世代交代)
>ミヒャエル・エンデ『鏡の中の鏡』 (時と円環のモチーフ)
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