30,
2008

[信じて進んでその先に]
そこにいけると信じて、手を伸ばす。しかし、その手は届かない。
すべてを賭けて望み、あと少しのところで叶わなかった男、「偉大なる」ギャツビー氏の物語。
村上春樹氏にとって「人生で巡り合った最も大切な小説」であるという一冊。
別に氏のファンではないので、「ふーん」程度で読み始めた。
私にとって「最上の一冊」ではないが、それなりに印象的な話。
読んでいる最中は特に何を思うでもなく読んでいたのだが(村上氏の絶賛に気後れしていたのかもしれない)、むしろ読了後に印象が深まる本だった。
最初と最後の文章と、緑の灯火を眺める風景が、記憶に残る。
ギャツビー、優雅であり、陳腐であり、誰もが知っていて、誰からも忘れ去られた、ちぐはぐな男。
彼のキャラクターはなかなか飛んでいる。
「オールド・スポート」と語り手に対して語りかけるが、この言葉は「親愛なるあなた」みたいな呼び方で、米国の日常語ではない。(英国流らしい)
そんな奇妙な呼称を使ったり、ピンクのスーツを着ていたり、そして一人の女性(とんでもないおばかさん)に馬鹿みたいに一途。
豪邸を建ててパーティを開くが、見返りは、彼女の現れるお茶会にお呼ばれしたいという、実にささやかなものだった。
ここまで夢見がちで直球勝負の男は、なかなかめずらしい。
彼みたいな人が、友達にいたらどうだったろう。
おそらく、彼のようにはなれない、なりたくもないと思いながらも、ある種尊敬の念で見つめるかもしれない。
だから語り手が、「こんなものは絶対に我慢ならない」と思うようなものを具現化したような男だと言いながらも、「偉大なギャツビー」と親しみをこめて呼ぶ気持ちもわかる。
建国以来のアメリカの精神である、アメリカン・ドリームにのっとって行動した男が、すべてを失うこの物語は、なるほどアメリカ社会の一面を描き出す。
本書が上梓されたのは1925年、まだ暗黒の木曜日も大戦もベトナム戦争も経験してはいない。
負けを知らなかったアメリカで、敗北者の小説が問いかけた意味は、むしろ年を重ねるにつれて、重みを増しているのだと思う。
"So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past."
...Francis Scott Fitzgerald THE GREAT GATSBY , 1925.
スコット・フェツジラルド/村上春樹訳 『グレート・ギャツビー』 村上春樹翻訳ライブラリー、2006年。
recommend:
>サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』 (アメリカの青春物語)
>ジャック・ケルアック『路上』 (こっちはもっとしぶとい)
>スチュアート・ダイベック『僕はマゼランと旅した』 (美しく切ない描写)
rate:☆☆
以下、アメリカ社会について、社会学的目線からメモ。
踏み入れようとしても、踏み込めない、見えない一線。
たとえばそれを、社会学徒は「ガラスの天井」と呼ぶ。
「誰もが機会と実力さえあれば願いにたどり着くことができることができる」社会であるアメリカ。
人種も年代も身分も関係なく、階層移動ができる世界をめざして、多くの人々が「アメリカン・ドリーム」を実現しようとやってくる。
しかし実際は?
そこには、向こうが透けて見えるけど、その先には進めないガラスの天井があるのではないだろうか、という話。
民主主義は、平等であることが前提である。そこに階級はないことになっている。
しかし、アメリカでは、いまだに階級意識が根強く残る。
移民系の人々が、飲み屋で「俺はブルーカラーだが、息子は大学を出て教授になった。2代目でのし上がったんだ、すごいだろう」と自慢するという話を聞いたことがある。
そういう感覚なのだ。何代かかけてのし上がるというこの感覚。
日本でも「格差」という言葉は使われるが、おそらくこういうものではない。
最終章で、アメリカの東部と西部について、語り手ニックは述べている。
「僕がここで語ってきたのは西部の物語であったのだと・・・たぶん我々はそれぞれに、どこかしら東部の生活にうまく溶け込めない部分を抱え込んでいたのだろう」
裕福な東部と、田舎の西部、この両者の詳しい関係や心情には明るくないが、「うまく溶け込めない」この感覚は、わかるような気がする。
たとえばそれを、社会学徒は「ガラスの天井」と呼ぶ。
「誰もが機会と実力さえあれば願いにたどり着くことができることができる」社会であるアメリカ。
人種も年代も身分も関係なく、階層移動ができる世界をめざして、多くの人々が「アメリカン・ドリーム」を実現しようとやってくる。
しかし実際は?
そこには、向こうが透けて見えるけど、その先には進めないガラスの天井があるのではないだろうか、という話。
民主主義は、平等であることが前提である。そこに階級はないことになっている。
しかし、アメリカでは、いまだに階級意識が根強く残る。
移民系の人々が、飲み屋で「俺はブルーカラーだが、息子は大学を出て教授になった。2代目でのし上がったんだ、すごいだろう」と自慢するという話を聞いたことがある。
そういう感覚なのだ。何代かかけてのし上がるというこの感覚。
日本でも「格差」という言葉は使われるが、おそらくこういうものではない。
最終章で、アメリカの東部と西部について、語り手ニックは述べている。
「僕がここで語ってきたのは西部の物語であったのだと・・・たぶん我々はそれぞれに、どこかしら東部の生活にうまく溶け込めない部分を抱え込んでいたのだろう」
裕福な東部と、田舎の西部、この両者の詳しい関係や心情には明るくないが、「うまく溶け込めない」この感覚は、わかるような気がする。




ふくろう男

