2008.07.10 Thu

[西欧と南米の雰囲気]
ベルギー生まれのアルゼンチン人の作家による短篇集。
同じアルゼンチンの作家、ボルヘスと並ぶ、短篇の名手とされている。
著者は30代の時にフランスに渡り、以後フランスで生活している。
読んでいて、これまでのいわゆる「ラテンアメリカ文学」とどこか雰囲気が違うな、と感じたのは、彼のこのヨーロッパ性かもしれない。
実際、本書におさめられている短篇の舞台は、ほとんどがヨーロッパ。
でも、その幻想的な語り口は、南米的。
南米文学と西欧文学のハーフのような、そんな印象を受けた物語。
図書館にて、水声社から出ている『すべての火は火』という本を見つけたところから、コルタサルを知った。(題名が格好よかったので)
そっちを読んでいたら、岩波でも手ごろな文庫が出ていると知ったので、こちらを購入。
両方読んだ感想としては、『すべての火は火』との共通の作品がやっぱり良かった。
以下、気に入ったものの感想。
「南部高速道路」
信じられない渋滞でパリに帰れない人びとのつかの間の非日常の話。
「日常」から「非日常」へ、そして「非日常」が「日常」に。人は慣れる。
人びとが、名前が出ないで車種と性別で呼ばれているあたりもおもしろい。
「正午の島」
ギリシャの小さな島に執着する飛行機の添乗員の、短い物語。
最後にひっくり返される。
「ジョン・ハウエルへの指示」
突然舞台に上らされ、演技をやれといわれる主人公。
思えば人生がそういうものかもしれない。気がついたら、事件の中心にいるという不思議。
シェイクスピアだって言っている。「全世界は舞台であって、すべての男も女もその役者にすぎない」。
「すべての火は火」
現代パリの一室の出来事と、ローマのコロッセオの出来事が平行して進んで、収束する話。
題名そのまんま。すべての火は火に。
短篇は、長篇と読み方が違うなあとしみじみ思った。
長篇は読み飛ばす部分があっても大丈夫だけど、短篇はそうじゃない。
じっくり、長篇より少しだけ時間をかけて読む。
...Julio Cortázar Todos los fuegos el fuego, 1966.
フリオ・コルタサル/木村 栄一訳『悪魔の涎、追い求める男/コルタサル短篇集』岩波書店、1992年。
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ボルヘスは、どちらかといえば、人間よりも世界やしかけにスポットが当てられる。
コルタサルはその逆で、世界よりも人間の行動に興味の焦点がある。
似ているようで、違っている。
比較文学もきっとおもしろいんだろうなあ。
recommend:
>ボルヘス『砂の本』 (お師匠?の作品。幻想、世界の構成系)
>フアン・ルルフォ『燃える平原』 (南米短篇だけど、こうも雰囲気が違うとは)
2008.07.08 Tue

[白黒つけない]
アメリカとヨーロッパを知る、アメリカ人作家による物語。
英米文学の授業では、必ず出てくる古典中の古典。
19世紀のクラシックさと、プロットの上手さがあって、なかなか読み応えあり。
『デイジー・ミラー』
多文化に触れるということは、深く踏み込めば踏み込むほど、二束のわらじをはくようなもので、なかなかバランスをとるのがむずかしい。
たとえば、外国に旅行にいった時、旅行者はどういう態度をとるか?
どっぷり異文化にはまろうとする人、現地のしきたりに従いつつも旅行者である自覚を忘れない人、自国での生活をそのまま持ち込もうとする人、などなど。
『デイジー・ミラー』で描かれた若いアメリカ女性への視線も、つまりはこうした態度の違いに基づく。
アメリカでは普通であるデイジーのふるまいは、ヨーロッパでは「はしたない」と歓迎されない。
そうした見解の差異の中で、「本当はどっちなんだ!」と迷う主人公。
あのはさまれっぷりは、中間管理職のような、やるせなさが漂っている。
結局、ああだこうだと悩んだ主人公だけど、本当はいたってシンプルな話だったわけで。
ヨーロッパとアメリカは容易に相容れない。男と女の心もそれに同じ。
『ねじの回転』
イギリスは、ピューリタン革命の歴史を持つキリスト教圏だが、その昔から幽霊、妖精が日常生活に根づいている不思議の国でもある。
(ハリーポッターがうまれたのは偶然ではない。アメリカではあの物語は生まれない)
さて、そんなイギリスでの幽霊話。
田舎の屋敷につとめることになった女性家庭教師が、お屋敷で男女の幽霊を見る。
どうやら、幽霊は邪悪で、屋敷にいる二人のかわいい兄妹を連れて行こうとしているらしい。
子供を悪鬼の手から守らねば!と奮闘する彼女の手記から話は進む。
やられたなあと思うのは、主人公の女性の主観を、あっさりと受け入れて読んでいるうちに、だんだん「あれ?」と思ってくる「認識のズレ」。
幽霊が悪い、子供たちもグルだと思い込んでいたのに、それがクライマックスにいくにつれて、だんだんわからなくなってくる。
果たして、幽霊はいたのか、いないのか?
「私」と「他者」の認識がずれた時、どちらかは「狂気」となる。
白黒は、最後までつけられないまま。
...Henry James DAISY MILLER , 1878. THE TURN OF THE SCREW , 1898.
ヘンリー・ジェームズ/行方昭夫訳 『ねじの回転 デイジー・ミラー』岩波書店、2003年。
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ヨーロッパとアメリカ、幽霊の実在と不在、どちらも白黒つけないジェイムズの中立っぽい立場がおもしろいと思った。
二束のわらじをはく人間は、だいたいこういう感じになるような。
recommend:
>芥川龍之介『藪の中』 (真実は藪の中)
>カポーティ『ミリアム』 (西洋の幽霊話)
2008.07.03 Thu

[物語をどう読むか]
「ロリータ」は、たいていの人が読んだことがなくても、名前は知っている、そして名前から中身をある程度想像することができるという、文学の中でも一風変わった立ち位置を持つ。
作家・大江健三郎が「二十世紀最良の小説」と呼び、同じく作家・佐藤亜紀に「ナボコフの前にナボコフなく、ナボコフの後にナボコフなし」と言わしめた。
文学史上のモンスターとして丁寧に読み込むこともできれば、「ロリコン」風俗小説として読もうと思えば読めるという、なんとも度量がある本。
価値のある本というのは、何回読んでも発見があり、また個人によってそうとう読み方が変わる、つまり「読み」の幅がはんぱないことであると、個人的には思っている。(たとえば聖書しかり、マルクスしかり)
この本も、そういう意味では間違いなく価値がある。
「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。下の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。」
これ以上ないくらい強烈な書き出しから始まるこの小説。
主人公ハンバート・ハンバートは、自らを変態だと自負していて、読んでいるこちらもまったく異論をはさむ余地はない。
いわゆる真性の変態らしく、純心で、外見と周りの評判はすこぶる良い。
その外面とは裏腹に、少女にとち狂い、少女のために少女の母親に近づき、「ニンフェット」(ニンフの乙女)学なるものを提案する、わりと本気でどうしようもない男でもある。
さて、ハンバートと、ロリータが、一緒にアメリカを横断する旅に出る。
途中で謎の男の存在が登場し、そしてロリータとの別れ。・・・
「迷彩をほどこした」と手記の筆者、ハンバートは語る。
そう、まさに迷彩、複雑怪奇な模様が、本の間中にはりめぐらされている。
アメリカ旅物語でもあり、ミステリーでもあり、ロマンでもあり。
読む年代、性別、時期によって、色がぐるぐる変わるのではないかなと思う。
中年男による少女への性行為に、たぶんフェミニストは激しく怒る。
一方で、ハンバートをうらやましく思う人間もいるだろう。
愛への渇望に共感する恋愛主義者、孤独と別れに涙するロマンチスト。
物語の構成に興味を抱く文学者、人の人生を食いつぶすことについて考えるヒューマニスト。
「あそこでああしていればよかったのに」と思う現実主義者、ちりばめられた細工にニヤリとする知識愛好家…
読み方はさまざま、じつにさまざま。
さて私はというと、自分でもいろいろ考えることが変わって、正直よくわからない。
一番印象に残ったのは、「以上が私の物語である」という締めの部分へ向かうクライマックスのあたり。
盛り上がって、ぶつりと切れる終わり方が個人的にはとても好きだったので。
最後に、ナボコフの言葉。
「文学の教師というものは、とかく「作者の意図は何か?」とか、もっとひどいことには「こいつはいったい何が言いたいんだ?」というような問題を考えつきがちである。
そこで言っておくが、私はたまたま、いったん本を書き出せば、そいつを終わらせてしまうという以外の意図を持たないタイプの著者であり…」
なので、こうした論議はここでは問題にしない。
文学とは、個人がそれぞれに「個人の物語」を読む。
逆を言えば、自分の中にないものを、人は他者や文学にも見いだせられない。
もう一度、しばらくしたら、読み返したいと強く思った物語。
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「ロリータ」「ロリコン」「ゴスロリ」・・・とかくこうしたイメージが先行しているものだから、ちょっと手を出しにくかった本だけど、読んでよかった。うむ。
recommend:
>アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』 (ロリータの別の読み方)
>ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 (読み方の多様性、モザイク)
2008.06.30 Mon

[故郷を思う]
SFの大御所、ブラッドベリの中でも、1,2を争う著名な作品。
ブラッドベリは「叙情SF詩人」と呼ばれる。
何のこっちゃと思って読んだが、確かに「叙情SF詩人」だった。
せつなさがしんしんと染みる。
「進歩」「未来」という言葉を、ピュアな希望を持って語られなくなって久しい。
ブラッドベリが「火星に人類が到着している」と設定した2001年もとうに過ぎた。
古いSFを読むと、こうした奇妙な感覚を覚える。
子供から大人になる過程にも似た、どこか切なく苦い感情、ああそれほど進むことはなかったよ、というような。
でも、ブラッドベリが本書で言っているのは、「あくまで人間は人間だよね」ということ。
文明が変化しても、人の心はたいして変わりはしないと。
「火星年代記」は、火星人が出てくるが、別に火星人を倒したり、侵略から地球を守るハリウッド的な展開ではない。
本書の火星人は侵略しない。
彼らはむしろ侵略され、人間の鏡であり、ある種の「ヒト」の理想でもある。
火星へ行く、新しい土地へ行く話のはずなのに、感じたのは「故郷」「帰る場所」への人間の心だった。
帰る場所、それはいとしい人間の腕の中だったり、思い出の中の生まれ故郷だったりする。
たとえ別の場所にいっても、人は自分の居場所を捨てきれないのだな、としみじみ思う。
人間は、美しい火星を、地球らしく(この場合はアメリカらしく)する。
また、死んでしまったはずの人間を、わかっているはずなのにそれでも望んでしまう。
しかしそんな人間たちの愛すべき愚かしさを、冷笑するのではなく、火星人を通してせつなく描いているところは、さすがブラッドベリ。
「月は今でも明るいが」「夜の邂逅」「第2のアッシャー邸」が、小話として気に入った作品。
ちなみに、「月は今でも明るいが」でうたわれている詩は、バイロン。
So we'll go no more a-roving So late into the night,
Though the heart still be as loving, And the moon still be as bright.
「われらはもはやさまようまい こんなにおそい夜の中
心は今なお愛に満ち 月は今でも明るいが」(本文より)
...Raymond Douglas BradburyTHE MARTIAN CHORONICLES , 1950.
レイ・ブラッドベリ『火星年代記』早川書房、1976年。
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ばりばりのヒューマニズム系はあまり好みではないのだが、なぜかこの本は別格。
いかにもアメリカン、いかにもオールド・ファッションなんだけどね。
ロマン派詩人がなんとなく苦手で、バイロンは読む気がしなかったのだけど、「火星年代記」で好きになった。
こんな逆輸入もあるという話。
バイロンの詩だと、他は「She walks in bearuty」と「Fill the Goblet again」が好き。
「Fill the Goblet again」は、酒好きにはたまらない詩。杯を満たせ!
recommend:
>ブラッドベリ『二人がここにいる不思議』 (最後のおじさんの話がとても好き)
>オー・ヘンリー『オー・ヘンリー短編集』 (ヒューマニズムといえば)
2008.06.30 Mon

[不可能の紳士]
20世紀フランスの知性と呼ばれた、詩人ヴァレリーによる、不可思議な紳士の文章。
「ムッシュー・テストと劇場で」「ムッシュ・テストの航海日誌」など、いくつかの連作からなる。
「文章」とあえて呼んだのは、小説ともつかず、物語ともつかず、しかし奇妙に印象的な文章の束だと思ったから。
哲学のような、訓戒のような?
何かとてつもなく核心めいたことを言っているようで、それでいて理解の枠をさらりと踏み超える。
まるで錬金術師の日記を見ているような、そんな変な読後感だった。
本書は、ムッシュー・テストという、まるでつかみどころのない、どこか人間離れしている一人の紳士について、さまざまな角度から描いている。
「この種の人間の生存は現実では数十分以上つづくことはできないだろう」
ムッシュー・テストについて、序で述べられている言葉。そして問いが続く。
「なにゆえにムッシュー・テストは不可能なのか?」
「心はひとつの無人島」「神なき神秘家」「胸像のない人間」・・・このほかにも、彼について述べられる言葉は、謎めきに謎めいている。
主張もなく、執着もなく、迷いもない人間。
もし本当にこんな人間がいるのだとしたら、およそ言葉で語るのは不可能だと思うし、一方で彼は文学の中にしか存在しないとも思う。
ヴァレリーは難解な作家と称される。
彼が生涯かけて取り組んだ「自己の鏡」でもある「ムッシュー・テスト」。
本書は、彼の思考の深淵をぽかりとのぞかせる。
...Paul Valery MONSIEUR TESTE , 1896.
ヴァレリー/清水徹訳『ムッシュー・テスト』岩波書店、2004年。
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ムッシュー・テストみたいな人がもし近くにいたら、いやおうなしに引き込まれてしまうような、引力を持っていると思う。
でも、友達にはなりたくないし、なれそうもない。・・・
recommend:
>ムージル『特性のない男』 (人間でありながら、人間でないような)
>ドストエフスキー『罪と罰』 (人間を超えようとして、超えられなかった)
2008.06.27 Fri

[現実から逃げ切る]
「難破船の水夫のように、生活の孤独のうえに絶望した目をさまよわせつつ、 はるか水平線の靄のうちに白い帆のあらわれるのをもとめていた」(本文より)
現実世界とうまく折りあいをつけられない女性が、夢の世界に生きて死んでいく物語。
現代の小説技法、たとえば写実描写などが使われている、正統派小説。
当初、19世紀のフランスでは、主人公が不倫する描写が問題となって、作者が罪に問われたらしい。
裁判の時、フローベールが「Madame Bovary, c'est moi/ボヴァリー夫人は私だ」といったことは、あまりにも有名。
今では、質はともかくとして、これより刺激的な物語はいくらでもある。
時代は移ったのだなあとしみじみとする。
ボヴァリー夫人、エマみたいな人って、けっこう多いのではないかと思う。
現実と理想の違いに悩み、逃げることを選ぶ人。
彼女の場合、逃げる先は恋とぜいたくな買い物だったが、 人によっては宗教だったり二次元、ネット世界だったりするわけで。
人生はたいていが思うようにはいかない。
さて、それにどう対応するか?
うまく折り合いをつけるか、あきらめるか、別の世界に逃避するか。
それは人それぞれの選択である。
逃げる選択、それは先の見えない霧の道を走り続けるようなものだろうか。
帰ることもできなくて、ひたすら走って、疲れて、なにかにつまづいて転ぶ。
そうしたらたぶん、簡単にはもう起き上がることができない。…
エマのすごいところは、徹底的に現実から逃げ切ったところではないかと思う。
フローベール自身もまた、ほとんど外に出ることなく、小説を書き続けた。
冷静に、世界を少し遠くから見つめる視線をのぞく作品。
...Gustave Flaubert MADAME BOVARY , 1857.
フローベール / 生島 遼一訳『ボヴァリー夫人』新潮社、2000年。
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世界と折り合いをどうつけるか、これはとても興味のあるテーマ。
個人的には、あんまり逃げる選択は好きではないのだが、でもわかる、という話。
あまりにスタンダードな小説だものだから、最近の傾向からちょっと離れて新鮮だった。
でも、ずっとは印象には残らないだろうなあ。・・・
recommend:
>トルストイ『アンナ・カレーニナ』 (不倫、そして同じ結末)
>ジッド『狭き門』 (神への愛に逃げる)
2008.06.24 Tue

[思い出す、悲しみは]
19歳の時に書かれ、フランス文学界から絶賛を浴びた、サガンの処女作。
読んだあとのざっくりとした感想は「ああ、フランスだなー」。
全体的に、なんともフランスの少女らしいかわいさ、気まぐれ、痛み、残酷さな雰囲気がある物語。
大人になりきれない、なれない、なりたくない。
自分にも、かつてそういう時代があったことを思い出す。
幼い頃は、大人がとても「大人」に見えたけれど、今自分が同じ年にたった時、大人も必死だったのだと分かる。
主人公は、いわゆる「大人の女性」である父親の愛人に反発し続ける。
「彼女はまっすぐに、動かずにしゃべれる女たちの一人だった。
私には、長いすだとか、手持ち無沙汰につかむ物だとか、タバコだとか、 足をぶらつかせるとか、ぶらついている足を眺めるとかが必要だった。」(本文より)
大人の女性と、自分との対比が絶えず絶えず行われて、そして迎える結末。
昔を思い出すような口調、ふと現実に帰る瞬間があって、それが切なさを増している。
水色とバラ色の石を拾って、それを今眺めているシーンが、お気に入り。
青春がすでに過ぎ去ってしまっている人にとって、それを思い出す時には、きっとこんな気持ちになるに違いない。
「今日、この石は桃色に、暖かく私の手の中にあって、私を泣きたくさせる。」
...Françoise Sagan BONJOUR TRISTESSE , 1954.
フランソワーズ サガン/朝吹 登水子訳『悲しみよこんにちは』新潮社、1955年。
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薄さ、青春小説という肩書きから、軽く読み始めたのだが、思ったよりも良かった本。
フランス映画のような、物憂げさ、色彩がすてき。

河出書房から、池澤夏樹セレクションで出ましたね。
こちらの表紙もなかなかいいと思う。
recommend:
>コクトー『恐るべき子供たち』 (青春の痛みと恋心)
>サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』 (男の子版、悪ぶる青春)
2008.06.24 Tue

[ひきこもる]
「<なまけ者!>――これはもう一個の肩書きであり、使命であり、履歴でさえある。」
「ああ、諸君、ぼくが自分を賢い人間とみなしているのは、ただただ、ぼくが生涯、何もはじめず、何もやりとげなかった、それだけの理由からかもしれないのである。」(本文より)
ロシアの大文豪、ドストエフスキーによる、ひきこもり文学。
ネクラーソフ(名前までが冗談めいている)という人間が、地下室で書いた手記として、本書は構成されている。
2+2=4の世界への疑問、人間は、理想のためだけに動くわけではなく、同じくらい破滅のためにも動くということ。
人間は、矛盾に満ちている、という話。
ドストを読んでいてしばしば仰天するのは、この弁舌、そして人の心のとらえ方。
19世紀のロシアでも、自己のうちに閉じこもるタイプの人間は、こういう発想をしていたのだなあと、驚かずにはいられない。
彼の描く心の葛藤は、現代日本、ひきこもる人びと、自尊心の強い若人の思考に、かなり強烈に訴えてくるだろうと思う。
私も、読んでいてぎくり、とするところが少なくなかった。
いきなりぶっ通しで何ページもしゃべりまくる熱狂は、さすがロシア文学、さすがドストといったところだが。
主人公は、激烈な自尊心と、同じくらい激しい自己卑下の心を持っている。
自分は賢い者であるが、同時にハエのような存在だと。
世界とうまく相容れることができない。
この、誰でも一度はぶつかる壁に、本書はひとつの思考の結末を提示している。
世界が悪いのか、自分が悪いのか、それともどちらでもないのか。
世界は悪い、自分も醜悪、だからひきこもる。
本書は、「ドストの転換点」と呼ばれている。
「貧しき人びと」以来の人道主義から一転して、人間に対する不信、絶望が渦を巻く。
本書は非常に短いが、「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「悪霊」などの、ドストの大作と呼ばれる作品の片鱗がほのみえる。
「世界が破滅するのと、このぼくが茶を飲めなくなるのと、どっちを取るかって?
聞かしてやろうか、世界なんか破滅したって、ぼくがいつも茶を飲めれば、それでいいのさ」
すごい印象的だったセリフ。
ニート、ひきこもりは、現代的な社会問題ではなく、むしろ普遍的な文学的問題かもしれない。
...Фёдор Михайлович Достоевский Записки из подполья , 1864.
ドストエフスキー/江川卓訳『地下室の手記』新潮社、1969年。
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この本、ニーチェ、太宰治と同じくらい、感染力の高い本だと思う。
これを多感な年頃の時に読んだら、ひどいシンクロ率だろうなあ。・・・
世界との付き合い方、おそらく選択肢は数個しかない。
私は、何かをきっとあきらめて、譲るところは譲りながら生きることを選んだ。
さて、地下室の、扉の向こう側の人々は、何を選ぶか?
recommend:
>ニーチェ『ツァラトゥストラ』 (感染力の高さ)
>太宰治『人間失格』 (自尊心と自己卑下の塊)
2008.06.23 Mon

[より高いところへ行きたい]
『非ユークリッド的にして、象徴的に真実を物語る登山冒険小説』(冒頭)
フランスのシュルレアリズム作家による、未完の物語。
わりと冒頭の予告通りの話。
この話は人類の行動について、語ろうとしている。
なぜ人は、祈り、望み、努力を重ねてきたか?
「類推の山」と呼ばれる、地図上にはない、しかし最も高い山があると考え、雑誌に投稿した人がいる。
「類推の山」は、<天>と<地>を結ぶ、象徴的な山であり、「実在」しなければならず、また人間が到達可能でなければならないという。
山は、地図には載っていないが、確かに存在するという仮説のもと、信じて集まった人々が、計算に基づいて、冒険に乗り出していく。
冒険物語、SFのような「類推の山」の位置把握と行き方(海賊王の漫画を思い出した)、また実際にあっさりとたどり着いてしまうあたりが、「え、そんなんでいいの?」と思わせられるが、これは象徴の話らしいので、そこは打ちやって読む。
しかし、山に登るのはどえらく、難しい。
山は登山としての目的であり、また「天=高次」にたどり着きたいという、人間の果てしない望みの象徴でもある。
高次の次元への人類の接触を望み、それのために全ての努力を注ぐ。
さて、その心は?という話。
山に住む高次の人々は問いかけてくる。
「で、あなたはいったい何を探し求めているのか?」
その答えは、分からない。
この小説は未完だし、そして人類もまたその答えにたどり着かない気がする。
...René Daumal LE MONT ANALOGUE , 1956.
ルネ・ドーマル『類推の山』 河出書房、1996年。
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この本には、「雲をつかむような」という形容句が似合う。
未完であることもそうだが、分かりやすいようで分かりにくい。
人物も全員浮世離れ、どちらかというと、神話に近いかも。
この本は、どちらかというと表紙で読む気になった。
表紙の絵は、好きな画家の一人、ルネ・マグリット「ピレネーの山」。
recommend:
>アンドレ・ブルトン『ナジャ』 (フランスのシュルレアリズム)
>ボルヘス『バベルの図書館』 (図書館で宇宙を語る)
2008.06.20 Fri

[甘く苦い]
「これが恋なのだ、これが情熱というものなのだ、これが身も心も捧げ尽くすということなのだ」(本文より)
初恋は、実らない。
おとぎ話のようで、それでいて真実のような、よく耳にする言説。
多くの人は、「初恋の甘さ、苦さ」という、漠然としたイメージを持っていないだろうか。
恋も愛も、古今東西、人それぞれに多種多様で、多くの物語が語られきているが、なぜか初恋はみんな似たような雰囲気を持っているように思える。
本書は、まさに「初恋」ど真ん中の物語。
なんといっても初恋は、人生ではじめて、自分と親以外に心を傾けることだ。
しかもその引力は強力で、自分ではどうしていいかもわからない。
この不器用さ、真剣さ!
年を取ったなあ、としみじみしてしまう。
恋をして情熱を燃やし、そして幕引き。
いわゆるハッピーエンドではない。本書もまた、初恋のジンクスに引き込まれる。
主人公の想いは叶わず、ジナイーダも彼女の想いを果たしたわけでもなく。
それでも彼女とその想い人は、ともに死の淵をまたいで、主人公の前から消えてしまった。
彼らは向こうに行ってしまって、主人公だけがまだ生きている。
この、徹底的に取り残されてしまったような切なさ。
主人公は、二人の恋の間では、脇役でしかなかった。
森は秘密を隠している。
ロシアの庭のような、哀愁がただよう詩的な作品。
...Иван Сергеевич Тургенев Первая Любовь ,1860.
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『はつ恋』は、作者がもっとも愛したとされる。
それにしても、あの三角関係、実際にあったらいやだなあ。・・・
recommend:
>サガン『悲しみよこんにちは』 (三角関係と切なさ)
>コレット『青い麦』 (若者、そして初恋)
2008.06.11 Wed

[犬と負け犬]
「なんという屈辱だ」
「あんな大志を抱きながら、こんな末路を迎えるとは」(本文より)
南アフリカ生まれ、アフリカーナの作家による「負け犬」小説。
著者は、ブッカー賞史上初の2度受賞、ノーベル賞受賞など、見るも華やかな遍歴。
簡潔な文章で、暴力、性、自己犠牲を描く作品を作る。
本書の舞台は南アフリカ。
自分の生徒に手を出した大学教授が、その職を追われ、田舎の農園に落ちのびていくという話。
プロット的には、どこぞのメロドラマかと思わせるが(帯の紹介も、どうにも誤解をしやすい)、どちらかといえば、職を追われる転落自体はたいした問題ではない。
なぜなら、当の教授本人は、女子大生との問題や、自分の性欲に、ちっとも悪びれていないから。
さあ裁け、と諮問官にけんかを売ったり、バイロンに逃避してみたり、ひねくれて頑固、どうしようもないじいさんだなあと半ばあきれてしまう。
しかしこの人物は、自分にふりかかる災難から逃げようとはしない。
嵐が過ぎるのを待つように、災難にひたり、やり過ごし、そしてその中でなお生きる。
教授とその娘ルーシーの、恥辱まみれの中で淡々と生きる、その姿がなんとも不思議な話。
彼の著作を読んだのは、「夷狄を待ちながら」以来2作目だが、どうにもこうにも、彼の文章は読んでいて、しんどい。
文章そのものはいたって簡潔、リアリズムの文体を使っているから、読みやすい部類に入る。
しんどいと感じるのは、どちらかというと描かれているものの方か。
たとえば、暴力に対する屈服。
田舎の娘の住む農園に行き着いた主人公は、暴漢に家を襲われ、娘は陵辱される。
不思議なのは、こうした暴力にたいして、まるで嵐が過ぎ去るのを待つしかないように、二人(特に娘の方)が耐え忍んでいることだ。
生きるために必要だから、強い者に従うという理屈は、自然の摂理としては理解できるけど、どこかでそれを認めることを否定したがる自分がいる。
「力」で成り立つ弱肉強食のシステムを、文明人と称する人間は、「人権」やら「公共性」やらの言葉でうまく飾り、不協和を緩和しようとする。
だから人間世界で、ここまでシンプルなシステムを見せつけられると、ぐらりと揺れて、しんどくなってくる。
実際、本作には「アフリカを暴力的に描きすぎている」なんて批判も出たらしい。(なんとも的外れな批判だとは思うが)
白人男性(教授)と黒人女性(女子大生)、黒人男性(農園の下男)と白人女性(教授の娘)、そのふたつの支配関係が、物語の途中できれいに切り替わる。
この関係を、歴史をさかのぼる文化的な陵辱、アパルトヘイトの問題につなげることもできる。
正直なところ、黒人と白人の対立がどれほど根が深いものなのか、蚊帳の外の人間である自分には、とうてい理解は追いつかない。
教授の娘ルーシーが、暴力と陵辱に会いながらも、そこから逃げる道を選ばずに、田舎のルール、力関係のルールに頑固に従おうとするあたりは、歴史への配慮なのかなんなのか、理解不能の心理だった。
全体的に、「犬」感のただよう小説(日本語がおかしいが、そうとしか言いようがない)。
負け犬の教授が、やがて犬の世話をするようになる。
「犬のように」
「ええ、犬のように」
という、なんとも不思議な親子の会話があるし、最後のシーンは、もはやどちらが犬なのかわからなくなってくる。
救いもなく、最後まで下りっぱなしの話だが、それでも読後感はそれほど悪くない。
主人公は罰せられるのなら、どこかで救いがあるはずだという読者心理をきれいに裏切っておきながら、それでもなお淡々とこのおじさんは生きていくのだろうという結末。
恥辱にまみれたら、死を選ぶのか、はたまたそうでないのか。
後者の、あるひとつの答えを見せてくれる話。
... J.M.Coetzee DISGRACE,1999.
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面白いと思うのは、こうした恥辱を受けた場合、死を選択することも往々にしてあるだろうと思うのに、この作品ではちらりとも自殺の影が見えないところ。
もし彼らのシチュエーションに日本人が陥ったとしたら、おそらく自殺の選択肢が入ってくるはずだ。
それは文化の違いか、個人の問題か?さてはて。
recommend:
>カフカ『審判』 (最後のKの台詞とこの作品はリンクする)
>ブレヒト『三文オペラ』(本書とまったく逆、悪党が最後に唐突に救われる喜劇)
2008.06.09 Mon

[完成されたありきたりの物語]
イギリス文学の傑作のひとつに数えられる恋愛喜劇。
イギリスの田舎町で繰り広げられる、格好よくてお金持ちの男性と才気あふれる女性のロマンスと勘違い、ドタバタ、そして最後は大団円のハッピーエンド。
プロット自体はありきたりすぎるほどありきたりなのに、それでも先へ先へと読み進めたくなる、ふしぎな物語。
登場人物は、いかにも人間くさい。
みんな欠点を持っていて、それが会話や思考の中にはっきりと書き出される。
人は、どんなに冷静なつもりでも偏見でものを見ているし、自分に対しては虚栄心がつきまとう。
えらそうにしている人ほど、そんなものでガチガチになってしまっている。
作者は、そんな人々を皮肉に笑うが、それがからりと明るくて嫌味がない。
彼女のすばらしい人間観察力に、ううむ、と感心する。
特に、主人公エリザベスのあのはっきりした性格は、なかなか見ていて痛快。
文学作品を読んでいてめずらしく、友達になってみたいと思った人物。
"It is truth universally acknowledged, that a single man in possession of a good fortune must be in want of a wife."
「独身で財産がたっぷりある男性なら、きっと妻を欲しがっているはずだというのは、世の中で広く認められている真理である」
有名な書き出しの一文。彼女の英語は非常に美しいので、原文でいつかちゃんと読了してみたい。
「田舎の村の三軒か四軒の家族、それさえあれば小説が書けるのです」
ジェイン・オースティンが言ったとされる言葉。
彼女はまさに有限実行だったといえる。
完成されたありきたりの物語は、小手先のトリックを使わずとも、何世紀も後の読者を楽しませることができるのだなあ、と。
...Jane Austen PRIDE AND PREJUDICE ,1813.
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recommend:
>エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
>モーパッサン『脂肪の塊・テリエ館』 (鋭い人間描写と女性について)
>スタンダール『パルムの僧院』 (魅力的な女性、公爵夫人!)
2008.06.05 Thu

[死者は語る]
「誰しも同じ道を行くんだな、みんな去って行くんだ」(本文より)
寡作のメキシコ人作家による、ラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなったと言われる、古典。
『ペドロ・パラモ』、死者の記憶の断片だけでできた話。
顔も知らない父親、ペドロ・パラモを、名だけを頼りに探しにきた「おれ」が、コマラというさびれた町にたどり着くところから物語は始まる。
会う人、話す人、みんなたいてい死んでいて、しかも語り手もどんどん移動しながら、死者の記憶の断片が積もりに積もって、ぐるりと廻って収束する。
死者は常に周囲にひそめいている。
土の中でざわめき、嘆き、過去と隣人を思いかえしている。
南米の風土は独特だな、と、ラテンアメリカ文学を読むたびに思う。
なぜこうも淡淡と人が死に、殺されるのだろう。
「メキシコの現実を描出し」と説明にあるが、日本にいる感覚からしたら、これが現実とはとても思えない。
だからラテンアメリカ文学は「魔術的リアリズム」と呼ばれるのだろう。
フアン・ルルフォは、メキシコ生まれ。
彼は生涯で、2冊の本しか出さない寡作の作家だった。
一冊は短篇集『燃える平原』、そして本作『ペドロ・パラモ』。
特にこの『ペドロ・パラモ』は、ラテンアメリカの文筆者によって、『百年の孤独』とともにラテンアメリカ文学のベストに数え上げられたという。
日本では、ガルシア・マルケスは非常に有名であるにも関わらず、(『考える人』のランキングを見てもそうだ)、フアン・ルルフォは比べてあまりにも無名じゃなかろうか。もったいない。
生者と死者、現在と過去、すべての断片をごちゃ混ぜにして、ひとつの袋に放り込んで、ペドロ・パラモにまつわる話(もはや神話のようでもある)が完成する。
ガルシア・マルケスとその手法は似ているけれど、極力無駄を省いた硬派な文体が、マルケスとは異なるところ。
語り手もぐるぐる変わるので、最初はけっこう読みにくいが、くせになる(ラテンアメリカ文学は大体そうだ)。
かなり凝ったつくりで、後から読み返すと、「ああ、これがあれとつながっているのか」みたいな発見がある。
「報いを受けはじめているんだ。早いとこけりをつけるにゃ、今からはじめた方がいいだろう」(本文より)
ペドロ・パラモにまつわる人びと、さてみんな土の中。
小説の終わりから次を予測させない。ぐるぐる廻って土の中。
...Juan Rulfo PEDRO PARAMO ,1955.
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recommend:
>フアン・ルルフォ『燃える平原』 (たった一つの短篇集)
>フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』 (誰もいない町、死がそこにある)
以下、ラテンアメリカ文学で見られるあの独特の風土について、限定的な範囲で覚書。
2008.05.29 Thu

[自然を描く、自然にひたる]
トーベ・ヤンソン、彼女の小説は、「書く」より「描く」という言葉がにあう。
フィンランドといえばムーミン。
トーベは、そんなステレオタイプさえ生み出した、フィンランド生まれの女性作家。
「ムーミン」シリーズは、アニメでおなじみの人も多いだろう。
かばのような(失礼)ムーミンと、さすらいのスナフキン、そのほかゆかいな仲間が繰り広げるほのぼの物語・・・それが、日本におけるムーミンの一般的なイメージだろうと思う。
ところがあのアニメ版ムーミンは、本当のムーミンやトーベ・ヤンソンの作風とはちょっと違っていて、原作は、もうちょっとシュールで、野生味がある。
本書は、そんなトーベの自然へのまなざし、たくましさが楽しめる。
日常に、ふらりとトーベ・ヤンソンの短編を読めて、幸せだなあと思える。
どの話も短く、しかも良質のものが選ばれているから、気負わずに読みたい時にさらりと読める。
トーベは、長い間、岩だらけの孤島、クルーヴハル島で過ごした。
彼女の自然への視線は、どこか人間というよりは、動物的だ。
ごつごつとした岸壁、そこに生えるたくましい野生の植物、生物、そうしたものへの描写が、いきいきと描かれる。
老いも若いもひっくるめたような感性が光る。
ふと息抜きのように読みたくなる本。
...Tove Marika Jansson.
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個人ごとだが、トーベ・ヤンソンは、私のもっとも好きなイラストレーターの一人だったりする。
ムーミンシリーズの彼女の挿絵は、大気の色まで見えそうで、とにかく迫力がある。
一度も彼女の作品を見たことがない人は、ぜひ本屋でちらりとのぞいてみてほしい。
recommend:
>トーベ・ヤンソン『少女ソフィアの夏』
(児童書だけど、これもよい。ソフィアとばあちゃんの対等な話っぷりがおもしろい)
>ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』 (灯台で静かに暮らすこと)
2008.05.24 Sat

[Nonを言い続けたその果ては]
フランスの作家による、レアリスム文学。
著者の遍歴は変わっていて、医者をやったり、戦争に従軍したり、フランスを批判して追われたりしている。
本書の主人公バルダミユも医者で従軍経験があり、著者のひとつの映し鏡として描かれる。
読み終わった後に、セリーヌの墓石にはただ、"Non"の一言だけが刻まれているらしいということを知った。
このことに、ものすごく納得する。
セリーヌは、「夜の果てへの旅」は、すべてに"Non"をつきつけてくる。
「果て」とはなにかと考える。
それはたぶん「一線」のようなもので、その向こうが「果て」なのだろう。
人間は容易にそこを越えられないが、一度向こう側にいってしまった人間は、もう越える前には戻れない。そんなものだと思う。
文中に時折出てくる「果て」のフレーズはどれも、深い森の奥から聞こえてくる嘆きのように、じわりと重い。
主人公バルダミユ、そしてその友ロバンソンは、生涯かけてその一線の淵をさまよい歩く。
人生は夜、一箇所にとどまれない放浪者、世界にある普通のものには相容れない。
戦争を否定し、偽善を否定し、友も家族も愛も嘘だとはねつける。
その姿は、非常に正直で潔癖で、常人ではまねできないレベルのものだ。
だけど否定ばかりのその先には、さていったい何が残るという?
すべてを否定して、否定して、歩いていく。
あるべき姿、希望、救いなんてものは、この本にはない。
だからこそ、ある意味では誰にでも分かり、また分かりたくないことなのかもしれない。
振り返り、道を引き返せば、暖かい光の町が待っている。
だけどそこに自分の居場所はなくて、ただひたすら町から遠のく、暗い道の先へと進むことを選ぶ。
そんな虚しさ、もの悲しさを見送るような本。
...Louis-Ferdinand Céline Voyage au bout de la nuit, 1932.
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印象として、はじめはずいぶん陰惨な話なのだろうと思っていた。
読後の気分は最悪だろうと覚悟していたのだが、むしろ悲しさが先にたった。
ある程度の読書をこなしていないと、きついタイプの本ではあると思う。(長さも上下あることだし)
「一線を越えるか否か」というテーマは興味のあるところなので、私はおもしろく読んだ。
アフリカ、戦争、一線を越えるという話は、大御所ではコンラッドの「闇の奥」があるが、私はコンラッドよりセリーヌの方が好き。
踏み越えるか、越えないか。
ぎりぎりの選択は、気がつけば目の前にあったりする。
recommend:
>コンラッド『闇の奥』 (さて、一線を?)
>カミュ『転落・追放の王国』 (問題をつきつけ、えぐる)
2008.05.21 Wed

[ガイジンさん、いらっしゃい]
ものすごく舌をかみそうな名前の、タイ系アメリカ人による短編小説。
書かれている言語は英語だが、内容はタイ人の目線。
そこが、アメリカやイギリスでは好評らしい。
おそらく、自分たちの持たない「目線」を描いた、という点でものめずらしいからかな、と思う。
観光客は、観光客の目線でものを見る。
実物を見ているようでいて、ガイドブックに載っているものを見ている。
・・・なんてことは、100年前、ブアスティンなんかの頃から言われていることであって。
でも、それでもやはりそうかもしれない、と思うことがある。
自分自身の旅での経験からも、そう思う。
だから、観光客を見る現地の人の目線を見せられると、はっとする。
現地の人と仲良くなったつもりになっても、彼らが現地語で話し合っているのを聞いたときに、強烈な疎外感を感じるように。
そう、溝は容易に埋まらない。
タイの人々が、これを読んでどう思うのかはわからないけれど、旅をする人間なら一度は感じたことのあるざわめきと疎外感を、この本の中に見つけることができるのではないだろうか。
個人的に印象に残ったのは、
タイの人々から見た異国人への視線「ガイジン」「観光」、
タイで暮らす異国人の心を描いた「こんなところで死にたくない」、
タイ独特のモチーフ「プリシラ」(カンボジア難民)、「闘鶏者」(闘鶏)、など。
この本には、タイの人々に向けた愛惜の目線もあるけれど、外国人への視線をより強く感じる。
かなり「ガイジン」向けで、内容それ自体もタイの「観光」らしい。
描かれている内容も、本の存在も、西欧圏への皮肉な目線がこめられている。
この本を愛でる西欧人は、わかっているようで、やっぱりわかっていないんじゃないかと、そんな風にも思う。
とはいえ、アジア系の人の海外文学はまだまだ少ないので、一読をおすすめする。
「観光」だっていいじゃないか!
...Rattawut Lapcharoensap SIGHTSEEING ,2006.
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アメリカには伝統的に大学に「創作学科」というものがあって、そこで小説家の養成をしている。
最近では、ピュリツァーを取ったジュンパ・ラヒリなんかが有名どころ。
ラッタウットもその一人で、だからやっぱりどこかラヒリなんかと通じるものがある。
構成がきれいで、越境文学の視点を持っている。うまいと思うけど、並べて読んでみると、やっぱりどこか「学校ぽい」影がちらほらするように思う。
国際的で、うまいと思うけど、どこか小粒にまとまりすぎるという感じは、自分が通っている大学によく似ているなあ、とふと思った。
recommend:
>ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』 (インド系アメリカ作家。かなり同じ傾向)
>ポール・セロー『ワールズ・エンド 世界の果て』 (これも異国でずれこむ話。村上春樹訳)
2008.05.13 Tue

[時は一方通行ではなく]
「もしもわたしに魂とか霊魂とか呼ばれるものがあるとするならば、きっとそれは一つではなく複数であるのに違いない。
それは限定された大きさ(dimention)を持たず、次元(dimention)を越えた存在だろう。
そして過去と未来の無数の朽ちていく肉体に次々と移り住み続けているのだ」 (本文より)
イギリスの作家による、奇想天外、マジカルな物語。
いくつもの時代を越えた物語の断片の中を、のんびりと泳ぐような小説。
あらすじを語るのがむずかしく、また実際、語ることはそれほど必要だとも思わない。
主人公とその母Dog Womanは、いろいろな時代に同時に存在して、そしていつも冒険をして、自分の心にすなおに生きている。
時間の感覚をなくした小説だから、時間の流れが一方通行な展開はしない。
ぐるぐるとめぐって、回って、その感覚がとてもおもしろい。
はっとするようなフレーズが多かったのも、この小説の特徴。
あと、Dog Womanのキャラクターが濃くてすてきすぎる。
うんちくも含蓄もなく、それでいておもしろい。
「時間は人の心の中にだけ流れるものだから、一晩で二万年が過ぎ去ることも不可能ではない」(本文より)
時間ってなんだろう、と、読み終わったあとにぼんやりと考えた本。
...Jeanette Winterson SEXING THE CHERRY ,1989.
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recommend:
>プルースト「失われた時をもとめて」 (時間感覚といえば)
>イタロ・カルヴィーノ「レ・コスミコミケ」 (マジカル!)